Sphinxのつぶやき
大雪の12月26日(火)に,岩手県の県北地域にある三愛学舎養護学校の研修会に参加して,個別の指導計画について2時間ほどお話しをさせていただきました。
三愛学舎養護学校は,社会福祉法人カナンの園が経営する私立の養護学校(高等部・専攻科)です。カナンの園には学校の他にも児童施設,通所授産施設,グループホーム,福祉工場,有限会社カナン牧場などがあり,児童期から成人期にいたる知的障害者の生活・学び・労働の場を提供しています。
今回の研修会は,児童施設(奥中山学園)の先生方と,三愛学舎養護学校の先生方の合同の研修会でした。奥中山学園と三愛学舎養護学校では,施設・学校・家庭の連携をスムーズに行うために,アセスメントから評価,卒業時のケアプランの作成までを三者で共通化するというねらいで個別の指導計画の導入を検討しているところです。私の立場は実際に個別の指導計画をつかってこんな授業をしていますという事例紹介でした。
私を研修会に誘っていただいた先生は,9月に行われた岩手IEPネットワークの研修会に参加した方で,あのときの話をというリクエストをいただき,その内容をほとんどそのままお話しさせていただきました。視聴覚機器の調子がいまひとつでスライドが見づらくてご迷惑をおかけしたのですが,それでも先生方はみなさん熱心にノートを取りながら聞いていただき,質疑応答も盛り上がってとても感激しました。その後のケース検討会も真剣なやりとりが続き,個別の指導計画を子どもたちのためにいいものにしたいという先生方の真摯な思いを感じることができました。
帰りの新幹線が雪のために遅れ,仙台から乗り継いだ仙山線も遅れて,家についたのは予定より1時間オーバーの20時半でした。盛岡駅の厳しい寒さと,カナンの園の先生方の暖かさが印象に残った1日でした。
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カナン牧場でつくったお菓子やパンをたくさんいただいてきたのですが,とっても美味しいです。パン好きのタローも大喜び。奥中山学園・三愛学舎養護学校の先生方,たいへんお世話になりました。(2000/12/29 6:15)
昨日,仕事の合間を縫って,仙台市博物館で今日まで催されている『世界四大文明 中国文明展』を見に行きました。すごい人混みでしかも時間がなかったので,駆け足で見て回りましたが,その中でも
の3つには時間をかけて対面してきました。兵馬俑の兵士たちの表情がとてもおだやかなのが印象に残りました。その他にもユーモラスなデザインの酒器や人形が多く展示されていて,なかなか楽しかったです。(2000/12/24 8:01)
12月10日(日)の朝日新聞日曜版に『10代の喫煙は不安障害をまねく』という記事が載っていました。10代で1日20本以上の喫煙習慣のある人は,成人してからパニック障害などを起こす危険が高まるのだそうです。パニック障害になるリスクは15.6倍,広場恐怖症で6.8倍,全般性不安障害で5.5倍。
高校生の喫煙は減っていないと思いますが,今でも喫煙が発覚すれば家庭謹慎という「処分」になるんでしょうか。私が高校教諭だった頃はそうでしたが。上の記事を読んで思ったのですが,単に自宅でおとなしく反省文を書けば良しとするのではなく,学校の図書室謹慎にでもして,喫煙の害に関するレポート提出という課題を与えたらどうでしょう。
喫煙の習慣をやめるのはとても難しいことだというのはみんな知っていることです。誰かに怒られたくらいでやめられるなら,禁煙外来なんていらないでしょう?喫煙すると自分にどういう影響があるのかを知ることは,自分にとって正しい選択をするためには必要不可欠なことです。それによって「やめたいなー」「やめなくちゃいけないなー」と思わせることができたら,それはよい指導なんじゃないでしょうか。(2000/12/16 6:39)
週末に宮城県の七ツ森希望の家で障害児教育フォーラム(FEDHAN)のオフがありました。総勢30数名,宮城県の他,青森県,秋田県,埼玉県からもたくさんのメンバーが参加して楽しい二日間を過ごしました。3時まで続いた飲み会ももちろん楽しかったですが,今回印象に残ったのは,万華鏡づくりとルミエール牧場での乗馬です。
万華鏡は筒に布を巻き付けて3枚の鏡を組み込み(はさみで切れる鏡なんですよ!),筒の先にビーズと液体を入れた試験管を横に突き刺して作ります。30分ぐらいの制作時間で手軽にできて,いい記念になりました。光にかざしてゆっくり変化する模様を見ていると落ち着いくような別世界にいるような不思議な感覚です(↑写真)。
乗馬はタローと一緒に乗りました。タローははじめての体験。1回目は神妙な顔でしたが,それなりに高いところからの眺めを楽しんでいた様子。2回目は余裕の表情で楽しそうに乗っていました。1回目も2回目も,降ろしたら泣いてジタバタしたので,きっともっと乗っていたかったのでしょう。他のメンバーの子どもたちも,本当に楽しそうでした。(2000/12/11 6:42)
科学技術政策担当の笹川尭国務相が記者会見で「いじめがなくなることは絶対ありえない」と言ったそうですね。そう,それは確かにそう思います。いじめはこの世からなくならない。だから学校教育の中でいじめについて正面から取り上げて,いじめに対する自分の見解やいじめにあったときの対処法を全ての生徒に考えさせる必要があると思っています。し・か・し…,笹川氏の発言の続きを読んだときは目を疑いました。
「いじめを競争という言葉に置きかえてもいい。競争で生き抜いていくしかしょうがない。競争に勝っていけばいじめにあわない可能性も出る」
いじめは競争と同じ?いじめの世界で勝ち抜きなさい?ということは,いじめられるのは負けで,この世は結局力だけの世界だと言いたいのでしょうか。だとすれば一面的で深みのない人生観ですねえ。この発言のあとで「いろいろな競争に負けない強じんな精神をもつことの重要性を強調した」と釈明したそうですが,私は釈明になっていないように思います。人間はみんな「強じんな精神を持ちなさい」ということを言いたいわけでしょう?弱いものに「おまえは弱い。もっと強じんな精神を持て」というのは,私には弱いものいじめのように思えるのですが>笹川さん。(2000/12/09 6:46)
土曜日は散髪とタイヤ交換,日曜日は洗車。ゆったりした休日を過ごしました。洗車のあとでタローを連れて,郵便局まで散歩。一周1時間弱のコース。小雨が降っていたので久しぶりにおんぶをしていきました。「やまぐちタローくーん」「はーい」とお返事の練習をしたり,歌を歌ったりしながら。背中にタローのぬくもりを感じて,自分が子どもの頃,母親におんぶされて近所を歩いた記憶がよみがえってきました。タローはこうやって父におんぶされて散歩したことを覚えていてくれるかな。(2000/12/04 6:48)
ただでさえ読むべきものがあふれていて時間が足りない毎日ですが,また新しく月刊誌を予約してしまいました。『PSIKO』(プシコ)という雑誌です。チャッチフレーズは,『「こころの健康」と現代社会を考える月刊誌』。『PSIKO』のウェブサイト(リンク)があるのでそこから引用します。
現代は「病めるこころの時代」ともいわれます。 日々報じられる事件、家庭や学校、職場で起きている出来事。 わたしたちを取り巻く状況は、いまどのように 変わったのでしょうか。そしてわたしたちにどのような 影響を及ぼしているのでしょうか。 |
現在は創刊号と第2号が発行されています。創刊号の特集は『「自分」の研究』。そして香山リカさんと小学校の先生の特別対談,『「日本のいま」を読み解く——教育現場からの証言』も興味深いです。そして第2号の特集『「トラウマ」の研究』にも興味を引かれます。購入は本屋さんではできずに,年間購読の直販のみのようです。上記ウェブサイトから申込みができました。(2000/12/03 6:37)
昨日,うちのクラスで研究授業をしました。個別の指導計画を活用した「朝の会」ということで,毎朝やっている朝の会を全校教員に見てもらいました。朝の会の活動の中に,それぞれの生徒の重点目標にからんだ係活動を与えています。例えばひらがなの読み書きを練習をしている生徒は,黒板に行事予定を書いてそれを発表する係。絵や写真をしっかり「見る」ことが目標の生徒は,司会進行用の絵カードを見ながら言葉で司会をする係(司会は輪番ですが,昨日はこの目標をもつ生徒が順番にあたった)。クラスメイトの名前を覚えることが目標の生徒には,出席調べで一人一人の名前を呼んで握手する係,という感じです。朝の会という場面設定(活動の流れ)の中に,それぞれの重点目標にからんだ活動をどう取り込んでいくかというのが頭の使いどころです。また,生徒の変容にあわせて朝の会の活動内容が変化していくというところもうちのクラスのウリのひとつです。(朝の会ってけっこう1年中同じ活動内容で流しちゃうことが多いんですが)例えば最近ではひらがなの目標をクリアしてカタカナの学習に移行した生徒のために,新たな係をつくったりしました。
それから,うちのクラスは発語のない人が半数以上なので,朝の会の進行にVOCA(音声出力型会話補助装置)などのAAC(補助・代替コミュニケーション)が必要不可欠です。発語のない生徒がVOCAを活用しながら朝の会の役割分担を果たしている姿は印象に残ったようで,事後検討会でもAACの活用について少し議論をすることができました。最後の講評でAACに関して教頭からの後押しもありました。他のクラスにも広がってくれるといいなあ〜。今回の研究授業に対して意見を述べてくれた人は,皆さん好意的に受け止めてくれたようです。批判的に受け止めた人はいたのかどうかわかりませんが,批判的な意見を伝えるというのはなかなか難しいことかもしれませんね。そういう意見もぜひ聞きたいのですが。(2000/12/01 6:56)
加藤氏は欠席で内閣不信任案は否決。何ともつまらない結果に終わりましたね。日本は21世紀もこうやってつまらない政治家によって運営されていくわけですか。ちょっと期待した分,ガッカリ度も大きいです。
加藤さんは私と同じ鶴岡市の出身で,私が中学校の修学旅行で国会議事堂を見学したときに,議事堂内を案内してくれました。私が直に会ったことのあるただ一人の国会議員です。そういうわけで,加藤さんには親しみを感じていて,動静をけっこう注目していました。今回の不信任騒動で主流派に反旗を翻したからには,もう少しがんばって反対票を入れてほしかったです。でも,派内のほかの議員のことを考えて後退することにしたようですね。「名誉ある撤退」とか言っているようですが,かっこいい言葉だけが踊っています。これですべて終わりにしないで,次の展開を見据えて動き出してほしいです。
誰がどう考えたって,支持率18%の内閣が継続されるという状況は民主的ではありません。そういうことをおかしいと言えない自民党・保守党・公明党のみなさんはおかしい!自分の保身しか考えていないということですよ。ふりでもいいからもう少し国民の方に顔を向けてくれませんか。(2000/11/21 5:25)
#しかし派閥とか政党っていうのは窮屈なものですね〜。
先週の土曜日に,仙台国際センターで『NHK障害福祉フォーラム〜いっしょに生きていく、家族の中の自閉症児・者を考える〜』という催しが開かれました。
講演1 | 「自閉症の人たちに対する支援・援助 TEACCHプログラムのアイデアを応用して」 おしまコロニー 星が丘寮施設長 寺尾 孝士 |
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講演2 | 「自閉症児者の暮らしと人権」 毎日新聞社会部記者 野沢 和弘 |
シンポジウム | 「楽しくいっしょに生きていく 家族の中の自閉症児・者を考える」 |
講演1の寺尾孝士先生のお話しの中で,「自立することで自尊心が育つ」という言葉が印象に残りました。自分なりにTEACCHの構造化を学びながら日頃漠然と感じていたことが,この言葉でとてもクリアに理解できたように思います。寺尾先生には講演会が終わってお疲れのところ,個人的な夜の席にも快くお付き合いいただきました。昼の部以上にいろんな話をお聞きできてラッキーでした。(*^_^*)
その飲み会の席でのことですが,学校が強度行動障害をつくっているという話の流れの中で,宮城県の障害福祉課のSさんと,学校ではどうしてTEACCHに対するニーズが少ないんだろうという疑問にぶつかりました。そのとき,作業所などに比べて手厚い人員配置が,かえってマイナスに作用しているんじゃないかということに気づきました。生徒7〜8名に教員が2〜3名という配置だと,障害の重い生徒には教員を一人はりつけることができます。そうすると,その生徒は張り付けの教員に手取り足取り指導されます。こんな感じに…。
つまり,生徒に自立的に動いてもらわなくても日々の活動が成り立ってしまうのです。これがもし,7〜8名のクラスを1名の教師が見るということになれば,どうしても自分で見通しをもって動いてもらう必要が出てきます。そうすると必ずTEACCHの構造化のアイディアを取り入れなくては立ちゆかなくなるはずなんです。酔っぱらいモードにしては,いいところに気がついたと思うのですが,いかがでしょう。
そういう観点から我が身を振り返ってみると,けっこう1対1モードで生徒を困らせているような気がします。明日からまた「自立で自尊心」という標語を頭にたたき込んで,少し気合いを入れ直したいと思いました。(2000/11/15 6:19)
朝日新聞の宮城県版のひとつの特集記事が目を引きました。「歩む 家族のかたち」というシリーズの1回目「居場所−同じ目線に心ひらいて」です。記事はこちらで読むことができます。
http://mytown.asahi.com/miyagi/news02.asp?c=5&kiji=332
この記事は,仙台で売られている「JUICY」という雑誌の話です(私は読んだことありません)。十代の若者達の街角写真と手書きの原稿が載っている雑誌だそうです。もともとはファッション雑誌だったのですが,不登校の女子中学生の原稿を載せたところ,反響が大きくたくさんの手紙や電話が寄せられるようにりました。そしてその雑誌をつくっている内嶋秀司さんの事務所には,いつしか毎日若者達がやってきて自分のことを話すようになったのだそうです。
私はこの記事のなかで,内嶋さんの「大人のみえを取っ払っちゃった」という言葉と,「大人の人と普通に話す機会ってあまり無いんだよね。親とか先生はすぐ説教になっちゃうし。でもおっちゃんは同じ目線で話をしてくれる」という高校生の言葉に目が留まりました。(つづく)(2000/10/30 5:42)
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昨日,雪虫が舞う紅葉の道をタローと散歩しました。雪虫には今年はじめて出会いました。ちょっと早めの冬のお知らせでしょうか。2年前に生まれてはじめて雪虫を見たときのことを,98年のつぶやきに書いています。あのときは12月に入る頃だったと記憶しています。今年は雪がはやいのかな。それともここは仙台より寒いってことかな。
ところで,宮城県版の特集記事の話の続きです。「親とか先生はすぐ説教になっちゃうし」という高校生の言葉。私はこの高校生と周囲の大人との関係が,ほとんど支配−被支配関係でなりたっているんじゃないかと思いました。その高校生が内嶋さんとは「普通に話せる」といいます。もしかしたら,高校生にとって自分を支配(コントロール)したがらない唯一の大人なのかもしれません。「同じ目線で話してくれる」という言葉から,高校生が内嶋さんに一人の人間としてあるがままに受け入れられてていると感じていることが伝わってきます。
「親とか先生はすぐ説教になっちゃうし」という言葉に思わず我が身を振り返る方もいるかと思います。親や教師は子どもを正しい人間として育てたいと願うあまり,自分の一方的な期待像を押しつけてしまっていないでしょうか。読み書き計算や礼儀作法の教育なら,枠に当てはめて詰め込みで教えるということがある程度可能かもしれません。しかし,例えば倫理観や人生観などその人の考え方や哲学に関わってくる部分−−−服装や髪型もそれに含まれると私は思います−−−の教育を行うときに,まずその人の今の考えや哲学を認めてそこから出発しないとしたら,その人の現在の否定から教育がはじまるとしたら,これほど子ども(生徒)の意欲を奪うやり方はないように思います。
内嶋さんが「大人のみえを取っ払っちゃった」と言った意味を,「自分はいつも正しいんだ」という,支配者としての無謬主義のようなものを捨てたというふうに私は理解しました。それは,ときどき間違ったことを言ったりしたりするかもしれない等身大の自分を積極的に公開する決心をしたということだと思います。高校生が「同じ目線で…」と感じるような,自分の思いを話してみたいと思うような,そんな関係を築けたのは,内嶋さんが高校生達に積極的に「自己開示」したからだと思いました。
この記事を読んで自分なりに考えて「自己開示」という言葉にたどり着いたとき,私は前に体験教育の講義で習った「ジョハリの窓」という言葉を思い出しました。次はこの「ジョハリの窓」について書いてみたいと思います。(つづく)(2000/11/04 6:14)
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「ジョハリの窓」は対人関係を考えるときの基本となる図で,人の心のなかの4つの領域を示したものです。
(1)開放の領域:自分にも分かっていて,他者にも公開されている部分です。この部分では互いに情報を共有しているため,スムーズなコミュニケーションができます。
(2)気づいていない領域:他者には分かってしまうけれども,自分は気づいていない部分です。癖や行動パターン,態度の中には,自分では気づかずにやっていて周りの人にはよく見えるというものがありますね。
(3)隠れている/隠している領域:自分は知っているけれども他者には公開していない,プライベートな部分です。隠されているために,コミュニケーションがうまく行かない原因になることがあります。
(4)未知の領域:自分も気づいてなくて他者にも公開されていない,未知の領域です。何かに挑戦してなしえたときに「自分にもこんな力があったんだ」と驚くような場合,それまでその力はこの未知の領域に潜在していたということです。
そして,信頼関係を深めるためには,(1)の部分を広くして,(2)(3)(4)を狭くするようなプロセスが必要なのです。この中で,(3)を狭くするというのが「自己開示」です。(つづく)(2000/11/11 7:30)
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「ジョハリの窓」の続きです。
自己開示には返報性があり,自分が自己開示をして接することで,相手も自己開示するようになるのだそうです(なんとなく分かりますよね)。そして相互に自己開示的になることで,互いの信頼感が増していくのです。
内嶋さんのもとに訪れる高校生達が安心して自己開示できているということは,きっと内嶋さんが自己開示的に高校生に接しているということなんですね。私たち大人は,教師,あるいは親として子どもを導く役割をになっていて,権威を持って指導する場面が必要なことは確かです。でも,私たち大人も昔は子どもでした。そして今の子どもは将来の大人です。普段の生活の中では,「小さな大人たち」(=子どもたち)に等身大の自分をもっと見せてあげてよいのではないかと感じます。互いに自己開示的に接することで,きっと今よりよいコミュニケーションをすることができるようになります。皆さん,子どもたちにもっと自己開示してみませんか?(2000/11/13 6:24)
昨日,『まつりだ秋保2000』に,みんなで行ってきました。消防署のみなさんのブラスバンド演奏やほうねん座の太鼓と獅子舞,消防のはしご乗り,ミニSL,野菜や米の販売など盛りだくさんの催し物がありましたが,その中でタローの印象に残ったものは獅子舞とミニSL。
獅子舞はステージで舞っているときから魅入られるようにじっと見ていたのですが,お客さんのほうに降りてきた獅子が自分のほうにやってきて頭をがぶっと噛んだものですから相当驚いていました。かじられる瞬間は必死にえびぞって絶叫しながら逃げようとしていてかわいかったです。(写真撮れなかったのが残念)SLのほうは乗る前は興味がない様子でしたが,一度乗ったらかなり楽しかったらしく,降りるときに泣き,その後もずっとSLを目で追っていました。
出店で芋煮や焼き鳥,ポン菓子を買って食べながら,ぶらぶらいろんなものを見てタローのお友達のAちゃんと一緒に楽しんできました。そして最後に警察のおじさんの白バイに乗せてもらって帰ってきました。(2000/10/23 6:49)
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ところで,10月23日(月)の「ひとこと」で書いた『まつりだ秋保2000』の話に後日談ができました。仙台市政だよりの太白区版(140号;2000.11.15)に,祭の様子が写真で紹介されていました。懐かしいと思いながら見ていたら,「獅子舞の大きな口にびっくり」というキャプションの写真は,なんとタローが獅子に噛まれてえびぞっている写真でした。(^_^;) 抱っこしているお父さん(=Sphinx)が無精ひげなのがかっこわりー!あのとき写真が撮れなくてとても残念に思っていたのですが,こんなところでゲットできるとは…。できれば生写真がほしい。(2000/11/23 0:40)
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この写真は,以前この「ひとこと」で書いた,『まつりだ秋保2000』でのひとこまです。仙台市政だよりの太白区版に載った写真を秋保総合支所からもらってきました。必死にのけぞるタローの図。
最近,通勤の車中や街を歩きながら音楽を聴くときに,Rio600(Rio600へのリンク)というMP3の携帯プレーヤーを使っています。
MP3というのはデジタル・オーディオフォーマットの一種で,音質をほとんど損なわずにデータサイズを12分の1に圧縮できるという特徴があります。普通,5分程度の音楽をデジタル化してパソコンのハードディスクに保存すると50MBぐらいになってしまうのですが,それをMP3で圧縮すると4〜5MBですむのです。
携帯型のMP3プレーヤーには,デジタルカメラやパソコンで使われているメモリーが搭載されていて,曲のデータをパソコンからUSB経由でそのメモリーに記憶させることで WalkMan のように持ち運んで聞くことができます。従来のカセットテープやCD,MDを使った携帯プレーヤーと違い,モーターなどの可動部分がないので,持ち運ぶ衝撃による音飛びがまったくないというのがいい点です。
それから,パソコンから携帯プレーヤーへの転送が1曲10秒程度ととても高速なので(プレーヤーの種類にもよる),毎朝その日の気分に合わせて曲をセレクトして転送し,日々違う曲の組み合わせで通勤を楽しむことができます。カセットやCDだと毎朝いろんなアーティストの曲から1曲ずつセレクトして持っていくなどというのはほとんど不可能ですが,MP3なら30分のセレクションを2〜3分で準備できます。それも好きな曲を好きな順番で。私が一番便利だと思う点はこれです!
圧縮作業はパソコン上でMP3のソフトを使って行います。だいたいCD1枚20分程度で終わります。私の PowerBook には,現在444曲のMP3データーが1.4GBのハードディスクのスペースを占有して保存されています。レンタルCD屋さんでCDを借りてきてはMP3にしているので日々増えています。また,携帯プレーヤーで聴くだけでなく, PowerBook でハードディスクに保存している444曲から好きな曲を演奏させてそれを聴きながら仕事をするなんてこともできます。例えば,学校で生徒を帰した後,職員室に戻り PowerBook にヘッドフォンを差し込んで坂本龍一の「ウラBTTB」とヨー・ヨー・マの"Soul Of The Tango"を聴きながらその日の記録をまとめる。前はCDを何枚も持ち歩いてそういうことをやっていたのですが,MP3にしてCDを持ち歩く必要がなくなり,ホント便利になりました。(2000/10/22 8:22)
ちょっと前の新聞記事から。2000年09月29日付の朝日新聞朝刊に,「教科書の内容を絞りすぎるな」という題で松田良一・東京大学助教授<動物学>が投稿していました。松田氏はそのなかで,日米の教科書を比較して日本の教科書が薄すぎることを批判しています。投稿によると,全米ベストセラーの生物教科書は1150ページ。全ページがカラー印刷で環境問題,妊娠,喫煙と肺がん,エイズなどの日常生活に関連する問題も図・写真入りで説得力ある説明が加えられています。また入門的レベルの内容から大学中級レベルの難しい内容まで載せているのだそうです。それに比べて日本の高校生物教科書は1Bと2を合わせても350ページ程度でカラーも数ページだけ。内容は米国の教科書の数分の一しかありません。
日本の教科書が薄いのは,学習指導要領で内容の上限やページ数の大枠を文部省が決めているからだそうです。以前,高校で地学を教えていたときは,毎年毎年いろんな会社の地学の教科書を読み比べて,その中から1冊を選んでいました。同じ地学の教科書でも書いている人によって重点的に取り上げる内容や配列が違っておもしろいのですが,確かに教科書の厚さはどこも似たようなものでした。ページ数が制限されることで文章が無駄を省いたスリムなものとなるために,内容は無味乾燥な必要最小限の事実の羅列になっていて,読んで楽しいとは決して思えませんでした。だから私は授業で「教科書の○○ページを開いてそこを読みましょう」というような使い方をしたことがありません。
また,自分の高校時代を思い出してみても,地学の勉強をするのに教科書はほとんど使いませんでした。一番使ったのはチャート式「地学」という参考書です。参考書にはページの制限がないので,教科書にはない細かいことまでしっかり書いてあり,学習に広がりがでるのです。読んでいてとてもワクワクした記憶があります。1ページ目から最後のページまで何度も通読したので,どこに何が書いてあるかほとんど暗記していました。
内容が必要最小限に押さえてある「読んでつまらない」教科書と,内容が豊富で「読んで楽しい刺激的な」参考書。この構図は私が高校生だった約20年前からまったく変わっていないということですね。内容とページ数を制限することで,文部省は授業についていけない生徒を少しでも減らそうと考えたのかもしれませんが,現実は授業や家庭学習をどんどんつまらなくしているということではないでしょうか。勉強は楽しいからやるものです。そのためにも教科書は読んで楽しいものになってほしいです。どこかの会社で「副読本」扱いでもいいから検定に左右されない読んで楽しい教科書をつくってくれないかな〜。(2000/10/16 8:06)
「教育改革国民会議」の中間報告のなかで,奉仕活動を「全員が行うようにする」という提言が盛り込まれて,だいぶ批判されているようです。これについての私の意見は「使いようによっては面白いんじゃないですか?」というところです。たとえ義務化されても,奉仕活動をするという枠組みが用意されるだけですから,そこに何を入れるかは教師次第です。やりようによっては,いい社会体験授業にできるんじゃないでしょうか。教科学習の時間がある程度犠牲になったとしても,学校を飛び出して誰かの役に立ってみるという経験は悪くないと思います。
もちろん,奉仕活動を教育課程に組み込んだとたんに生徒が変わったとか,そういうことにはならないでしょう。「教育改革国民会議」の皆さんは,この案を教育改革の処方箋のひとつと考えているかもしれませんが,処方箋と言えるレベルのものではないと思います。奉仕活動のやり方を誤れば,生徒の反発を生んでおわりという結果をもたらす可能性もあります。教師がそこにどんな意義を見つけて,どんな学習場面を提供できるか。半強制的奉仕活動が教育の改革につながるかどうかは,そこにかかってくるでしょう。(2000/10/03 6:04)
9月23日(土)から24日(日)にかけて,IEPいわてネットワークの研修会に講師として参加してきました。一日目は,私から個別教育計画についての基礎的な話と前任校での実践の様子などを紹介し,二日目は岩手県内の養護学校から研究報告がありました。
参加者は,岩手県内の養護学校・特殊学級の教員と寄宿舎職員,保育士,児童相談所の心理判定員,施設職員,通園施設の指導員,保護者,臨床心理士,作業療法士,看護婦ケースワーカーの方々50名程度。皆さん熱心に話を聞いていただき,アンケートにも「勉強になった」「分かりやすかった」などとてもうれしい感想をたくさん書いていただきました。二日目の研究報告も,自分にとって学ぶことが多く刺激を受けました。
二日間,ずっと前からの知り合いのような,とてもアットホームな雰囲気のなかで過ごすことができました。行く前はドキドキして,与えられた時間も長いしどうなっちゃうのかなーと不安でいっぱいでしたが,行ってよかった。(^_^) 私にこの機会を与えてくれた事務局のMさん,ありがとうございます。そして岩手県の皆さん,お世話になりました。(2000/10/02 6:18)
食品への異物混入が相次いでいますね。それに関する新聞記事が載らない日はないという感じ。参天製薬の目薬の回収事件と,ほぼ同時に起こった雪印の乳製品による食中毒のどたばた。この二つの事件に端を発したこの夏の異物混入騒ぎ。
それにしてもいろんなものがでてくるなあと驚くとともに,きっと今までもいろんなものがでてきてたってことだなと,今さらながらに気づかされました。私はこの騒ぎの一部が,消費者と食品会社の過剰反応によって引き起こされていると感じています。製品の一つから虫が出てきたからといって,全部回収して廃棄というのはちょっとやりすぎ。もったいないという次元を通り越して,食品をそんな理由で多量に廃棄するというのはそれはそれで犯罪のような気がしてしまいます。飽食日本という言葉が頭をかすめます。
昨日の朝日新聞にそんな私の感覚とマッチする二つの記事がありました。一つは「eメール時評」。いとうせいこうさんは,消費者が無意識的に作り出した「不買ネットワーク」という緩やかな連帯への正義感から,消費者が事細かに異物混入を訴えていないか?と問います。そしてそういう消費者ネットワークの存在が,小規模生産者を苦しめているとしています。また,泉麻人の週末流行語大賞には,こんなアイディアがあってなるほどと思いました。『激安競争をするスーパーあたりに卸してみてはどうだろうか?「虫が出た方,1万円プレゼント!」なんてやったら,けっこうハケるかもしれない。』私はこういう発想に拍手を送りたいと思います。
その一方で,企業が自分の製品に不備があったと積極的に公表して行動を起こしたというのはいいことだったと思います。日本ではこれまで三菱自動車のリコール隠しのように,企業に不利益になる事実を隠そうとする体質がありました。今回の件で企業の風通しがよくなって,情報を公開した方が隠すよりも経済的であるという意識が定着すれば,災い転じて福となすということになるのかなと思います。(2000/08/28 5:58)
福島県のいわき湯本温泉に1泊して,「いわき市石炭・化石館」(石炭・化石館へのリンク)と「アクアマリンふくしま」(アクアマリンふくしまへのリンク)に行ってきました。
「いわき市石炭・化石館」には,いわき市で発見されたクビナガリュウ−−−フタバスズキリュウ−−−などいわき市に関連する化石と,常磐炭田に関する資料が展示されていました。
いわき市の地質は,古生代の地層と変成岩,花こう岩類を基盤として,その上に中生代白亜紀から現在までの地層が重なっています。古い地層から新しい地層まで幅広く存在するので,いわき市の地層からは古生代の三葉虫,中生代のアンモナイトや恐竜,新生代のサメやクジラなど,さまざまな化石が産出します。常磐炭田として知られる炭層は,その中の新生代古第三紀の地層に含まれています。タローは化石たちにあまり興味がない様子でしたが(それはそうだ!),恐竜の化石にタッチできるコーナーでは,いくつかの化石をペチペチたたいてうれしそうでした。さわっている様子を写真におさめて,「タッチ証明書」をいただきました。
常磐炭田の展示コーナーでは,炭田の歴史や炭鉱で使われた機具が展示されていました。石炭の利用のコーナーでは石炭が化石燃料としてだけでなく,いろんな工業製品の原料になっていることを知って驚きました。タイヤ,合成樹脂,有機顔料,有機溶剤,香料,防虫剤などなど。石油からいろんな製品がつくられるというイメージはあったのですが,石炭からも同じようにいろんなものができるんですね。
また,2Fの石炭展示室から縦坑エレベーターを地下600mまで降下すると(実際は普通のエレベーターで1Fに降りるだけ;でもけっこう坑道を降りていく雰囲気が出ている),模擬坑道があって,江戸時代から現代にいたる採炭の様子がジオラマで再現されています。戦後になって採炭の機械化がどんどん進んだ様子が分かりました。
模擬坑道を出ると,昭和初期の炭鉱の暮らしを再現した部屋がありました。労働者や家族が住んでいた場所には,区画ごとに「世話所」という施設があって,日勤と夜勤の係員が生活に関する様々なお世話をしていたのだそうです。みんなで助け合いながらつつましい質素な暮らしを営んでいた様子が伝わってきました。
戦後の復興を支えた炭鉱も,昭和30年代に入ると石油に押されてどんどん閉山していきました。しかし,埋蔵量は石油や天然ガスの数倍はあるとされていますし,石炭を原料にした新しい液体燃料も登場するなど,まだまだ石炭も現役選手だったのです。今回,石炭についての認識を新たにしました。(2000/08/22 7:42)
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次の日に「アクアマリンふくしま」(アクアマリンふくしまへのリンク)に行ってきました。この日は「福島県民の日」だったそうで入館料が無料。(知らなかった!)そのために10時過ぎに到着した頃には長蛇の列ができていました。臨時駐車場「D」から水族館まで歩いて15分,入館待ちの行列に並んで1時間,やっとの思いで涼しい館内へ。展示も人をかき分け,あとの人に気兼ねしながらとりあえず見るだけ見ようかというかんじでした。見終わったあとも,レストランに入るために並び,お土産屋さんまで並んで入場する有様。う〜〜ん,疲れた!
でもタローはそういう人だかりが楽しかったようです。外で入場を待っているときはぐずるんじゃないかと気をもみましたが,通りすがる人に手を振ったり,後ろの人の顔をジーッと見たりして飽きずに楽しんでいました。館内でもラッコやゴマアザラシなどが泳ぐ様子をちゃんと目で追って見ていたし,比較的小さい魚も指さしをして喜んでくれたので,その様子を見ているのはとても楽しかったです。
新しく完成した水族館ということで,どんな仕掛けがあるのかとワクワクしていったのですが,そんなにすごい仕掛けはありませんでした。(^_^;) 派手さはないけど,堅実なつくりという印象です。「生命・海の進化」のコーナーでは,魚類の進化を化石でたどりながら,その種に近い「生きた化石」の魚の水槽が展示されていました。その他,塩の道など海の文化的な側面の展示,レッドデータブックで絶滅の危険があるとされている魚の水槽など,解説をじっくり読みながらゆっくり見て回れるともっと楽しめると思いました。
いそいでまわっても楽しめたのが潮目の海を表現した大水槽です。4階から2階までが吹き抜け…じゃなくて,筒抜け…でもなくて,とにかく全部水槽になっていまして,その中にカツオやエイやサメやニシンやたくさんの魚たちが泳いでいました。2階に降りるとその大水槽の下をくぐれるようになっているのですが,実はそのトンネルが潮目をあらわしていて,トンネルの右と左がそれぞれ黒潮と親潮の海だったらしいです。さっきアクアマリンふくしまのウェブサイトをみたらそう書いてありました。そういえば魚や海草が全然違ってた。
「ふくしまの海」のコーナーには,世界で初めて水槽での繁殖に成功したというサンマの水槽がありました。サンマはこの水族館の目玉の一つなのですが,薄暗くて飾りもなにもない四角い水槽に十数匹のサンマが泳いでいるだけで,ちょっと期待はずれでした。
混雑でゆっくり見れなかった分,解説書で勉強しようと思ったのですが,アクアマリンふくしまの展示解説のテキストブックはまだ間に合わなくてできていないとか。今度はそれができたあたりの「普通の日」に行きたいです。(2000/08/24 7:17)
ココロに向かって耳をすまそう |
先日読んだ『「こころの時代」解体新書』に収録された連載と同じ頃に,主に新聞のコラムとして書かれた文章を集めたものです。時期が同じなので,扱っている題材も似たようなものが多いです。
その中で印象に残ったフレーズはこれです。私鉄のダイヤ改正で時刻表のカードを我先ににと群がる人々,駅員さんの「一人1枚」という呼びかけもむなしくたくさん取ってニコニコ顔で戻ってくる人を見て,香山リカさんはこう言います。
私鉄の小さな駅でのあのパニックを見ていると,「自分さえよければいい,というのは案外,日本人に昔からあった態度なのではないか」という気がしてくる。ふだん,会社や家庭ではそれを我慢しているだけに過ぎないのだ。
昨年の仙台の成人式で,記念講演をし村吉村作治・早大教授が,話を聞かない新成人に激怒したという話がありました。そのときに,私も同じようなことを考えて,この「ひとこと」にも書きました(→講演者が怒り出す成人式)。自分のことを含めて考えてみて,もう少し自分なりの倫理観をもって暮らせるようになりたいものだと思います。(2000/08/18 8:07)
「こころの時代」解体新書 |
精神科医・香山リカさんの最新の著書です。雑誌『創』で1997年7月から2000年5月まで連載した文章をまとめたものです。多重人格,アダルトチルドレン,サイコパスなどの専門用語が新聞や雑誌をにぎわし,TVドラマの題材にもなる今日この頃。そういう「こころの時代」を精神科医の立場で裏側から見てみると…という内容です。見出しの一部を紹介しましょう。
この本を読みながら考えていたことは,世論ていったい何だ?自分の考えっていったいなんだ?ということです。「虎の威を借る狐」という言葉がありますが,見かけの雰囲気だけじゃなく,思考まで他人のものを借りてきてそれで済ましている人が多すぎやしないかと感じます。無責任に他人の言葉や意見を借りてさも自分の意見のように吹聴・主張する人たちの存在が,世の中をややこしくしているように思いました。しかもそういう実体のない意見の集合が「世論」だったり「一般大衆の意見」だったりする!
この本の中で香山リカさんは「だれもが無自覚のうちに,自分が置かれている社会的な階層と強く結びついた画一的な発言を行っている最近の傾向」という表現をしているのですが,たぶん同じことを言っているのだと思います。
その考えは自分のかな?それとも誰かの考えのコピーかな?と,何かを主張するときにはよく考えたほうがいいと思います。その意見を主張するに足るデータや論理が自分の中にあるかどうかで,自分のものか借り物かはすぐに判断できます。もちろん,すべての考えを自分であみ出せというのではありません。そんなことをしていたら,人生はすぐに終わってしまいます。借り物の意見で十分なことも多いです。だけど,この考えは借り物だということを認識して,その限界をちゃんとわきまえないと,ちゃんと考えて自分の意見に従って行動している人の足を引っ張ることになってしまいます。自分もそうならないように気をつけよう。(2000/08/07 6:52)
夏の甲子園の代表校が決まりましたね。7月16日の朝日新聞,声の欄に高校野球についてのおもしろい意見が載っていました。試合中,監督はスタンドからプレーを観戦し,監督の替わりにベンチの生徒が試合の指揮をとるようにしたらどうかという意見です。これ,とてもいいアイディアだと思いませんか?
高校の運動部の様子を見ていて一番気になることは,監督のやり方に従って,その通りに動く生徒がよいとされる価値観です。集団での活動は,リーダーに従うことが必要不可欠ですが,それはそのリーダーに依存するということではありません。あくまでもリーダーの指示を自分で判断して,それに従うべき時は従う。自分の意見と違ったら,それをグループの仲間に投げかけてみる。そういう態度が必要です。リーダーが監督では,自分の意見と違ったときにそれを表明するのは難しいことですし,そんなことをしたら試合で使ってもらえないでしょうね。これでは集団活動の学習にはなってません。自分の考えを殺して支配者に依存することを教えているということです。
この投書の意見のように,試合を引っ張るリーダーが自分と立場の同じ生徒だったら,今よりもずっと自分の意見を言いやすいでしょう。試合という緊急時…時間のないところで,グループとしての意思決定を次々に行っていかなければならない。そしてその意思決定には,リーダー一人の考えではなくて,グループ全員の参加が求められる。グループワークのトレーニングとして,とてもいい場面設定だと思います。この意見に大賛成!!!(2000/08/05 8:01)
自閉症や知的障害をもつ子ども達との 株式会社アクセスインターナショナル 発行 |
コミュニケーション・エンジニアリング(コミュニケーションの設計)という考え方をもとに,会話のための話題づくりから生活場面の中でのコミュニケーションの練習方法まで,具体的に,しかもわかりやすく提案しています。全部で70ページで,図がふんだんに盛り込まれているので1時間もしないうちに読み終わります。コミュニケーションの指導をはじめるための導入のテキストとして,なかなかよくできていると思います。ただし,一般には流通していないので,購入するときはアクセスインターナショナルに直接申し込みます。(電話03-5248-1151,ファクス03-5248-1161)
家庭訪問などで保護者の願いを聞くと,自閉症の生徒や言葉のない生徒の場合,子どもに意思表示をしてほしいという希望が必ず出てきます。夏休みが終わったら,何人かの保護者の方にこの本を紹介しようと思いました(2000/08/01 6:56)。
アドベンチャーグループカウンセリングの実践 (ディック・プラウティ,ジム・ショーエル,ポール・ラドクリフ 著) |
プロジェクトアドベンチャーの実践マニュアルというか教科書のようなものです。その本の中に引用されている言葉の中で,私の目にとまったものを二つ紹介します。
「カウンセリングに向かう車に家族が一緒に乗り込んだ瞬間,セラピーのかなりの部分が,実は終わっているのかもしれない。家族が共通の目的のため一緒に何かをするということこそ,その家族に欠けている体験なのだから」(ファミリーセラピスト:Schweitzer,C.,1985)
「学校に新しく入る子どもに対して学校について説明するとき,私たちはたいてい学校でどんな活動ができるかということに焦点を当て,その子どものせっぱつまった悩みや迷いについてはあえて関心を示さないことにしている。たとえその子の抱えている問題を事実として知っていたとしても,そのようなことをこちらから言うことは行き過ぎであり,子どもが自分から打ち明けてくれるまで待つ姿勢をとる。実際,私たちがうかつにその子の悩み事に立ち入ると,だめな子だと思われていると感じて逆効果になることもある。そこで,その子の力だけでも,私たちの力だけでも問題は解決できないが,毎日の生活の中で一緒にやっていけばきっと何とかなると信じている,と伝えるようにしたい」("Love Is Not Enough",Bettelheim,B.,1950)(2000/08/01 6:56)
「超」発想法 (野口悠紀雄) |
「今後の日本人に求められるのは,模倣ではなく創造だ。だから,これからの教育は,知識を詰め込むのではなく,考える力を養い,自分で知識を発見する喜びと能力を育てるものに転換しなければならない」
この本を読む前の私なら「ふむふむ」とか言って読み飛ばしてしまいそうな文章ですが,「超」発想法を読んだ今となっては,この文章を読んで素直に納得することはできなくなりました。著者はこの本のなかで,上に記したような「創造力教育必要論」に真っ向から反対します。著者の論点は「模倣なくして創造なし」です。そして創造的な仕事をするためには知識を詰め込むことが必要だということを,過去の人々の実例をひもときながら丁寧に説明してくれます。
発想というと,なにやら特殊な人たちのための言葉で,私たちの生活には関係ないように思えるかもしれません。しかし,ここでいう発想とは,自分の頭脳を使って新しい何かを生み出すことすべてです。例えば私がこの文章を書くときの論点を考えることでもいいし,毎日の暮らしを楽しくするアイディアでもいいし,もちろん学問的な大発見でもいいのです。そういう意味で,これは一部の学者やビジネスマンのための本ではなくて,すべての人にとって役に立つ本だと思います。
この本は大きく3部構成になっています。
第I部「原理と原則」では,発想のための基本五原則と,発想が行われるときに頭の中で何が起こっているかという発想の心理的メカニズムについて述べています。モーツァルトの創造の原点は何だったか,数学者ポアンカレがどのようにして数学的な発想を得たかという話は興味深いです。また,「考え続けることの重要性」という指摘は,私もこの「ひとこと」を書き続けてきて感じていることです。この「ひとこと」に自分の意見を書きながら,それについて何日間も考え続けていると,新しい情報が目に留まったり,新しい考えが頭に浮かんだりするのです。私にとってこの「ひとこと」は,私がものを考えるきっかけでもあり,それを考え続けるためのものでもあり,忘れていた自分の考えに再会する場でもあるのです。
話を元に戻して,第II部「敵と陥穽」では発想の妨げになる態度や考え方について指摘し,さらにKJ法などの旧来の発想法の欠点にメスを入れます。この中では「勉強不足や情報の不足から生じる偽りの独創性」への戒めが心に残りました。いつも周りの人とちょっと違う感性や考え方をもっていると自分では感じていますが,それが勉強不足から生じた偽りの考え方にならないよう注意しなければと思います。KJ法については私は便利に使うときもあるので,一概に否定はしません。一人で考えるときに使ったことはありませんが,小集団での意思決定にはけっこう便利な方法だと思います。
さて,第III部「方法と環境」では,数学や物理学から発想の方法を学び,また発想をするための環境について考えます。数学や物理学でも,発想は「古いアイディアの再利用」であり,根本的に新しいアイディアがポンと生じているわけではないということを,これまた豊富な実例で示してくれます。また,モデルを適用して考えるという方法も紹介していて,この実例がなかなか興味深いです。モデルというのは,本質的なこと以外を切り捨てて現実を近似的に記述したものです。モデルを適用して考えることによって本質に近付いていくという方法は,私にとっては親しみやすいものですが,私の周りには苦手な人がけっこう多いかも。私は,自分の思考をモデルを適用して行っているかどうかということが「自分の考えをもっている」という状態ではないかと思います。自分の中にモデルをもたずに思考するのは難しいことです。そういう場合は,感情的な判断をしたり,無批判に誰かの考えを受け入れてしまったり,そういう合理的でない結果になるのではないでしょうか。こういうモデルは,野口氏の言うモデルとちょっと違う可能性もありますが…。
第III部の最後が,「創造性を支える教育と社会」についてです。創造性を育むための具体策を,文部省やなんとか教育審議会とは違った角度から提案しています。私の今の考えと違うところも少なくない−−−教育に関する私のモデルでは整理しきれない部分がある−−−のですが,豊富な実例とともに述べられていてかなり説得力があります。少しこの件については考え続けていかなければならないようです。
序論 協調の時代から発想の時代へ第I部 原理と原則第1章 「超」発想法の基本原則第2章 発想はどのように行われるか? 第II部 敵と陥穽第3章 発想の敵たち第4章 間違った発想法 第III部 方法と環境第5章 正しい発想法第6章 発想支援環境(1)考え続けよ 第7章 発想支援環境(2)対話と討論 第8章 パソコンはアイディア製造機 第9章 創造性を支える教育と社会 |
著者の野口悠紀雄氏(東京大学教授・先端経済工学研究センター長)は,『「超」整理法』や『「超」勉強法』などの『「超」…』シリーズで知られる方です。私はすべての『「超」…』シリーズを読んでいますが,シリーズのどの本もとても刺激的で自分の人生に少なからず影響を与えてくれます。
本当のことがホントにわかる! 図解 心理学のことが面白いほどわかる本 (渡邊芳之・佐藤達哉) |
プロローグ ちょっとだけ「心理学への招待」 第一章 「性格」は変わる,変えられる 第二章 人間関係はどうすればよくなるのか!? 第三章 やる気を起こすメカニズムがある 第四章 「心の動き」がわかればもっとラクに生きられる? エピローグ ちょっとだけ「心理学入門」 |
「心理学」と一般的な言葉になっていますが,心理学の中でも行動主義的な立場から書かれています。扱っている内容は,「性格」と「人間関係」と「やる気」です。どの内容も日常的な場面の分析を通して,それらの仕組みを平易な文章で簡潔に説明してくれています。(2000/06/27 5:48)
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この本の中で一番心に残ったのは「やる気のメカニズム」についてです(第三章)。その基本は「オペラント条件づけ」で,ランダムな行動の中から自分にとってよい結果をもたらした行動が残り,悪い結果をもたらした行動が消えるというものです。この「自分にとってよい結果」というのに実は二通りあって,その片方が得られるようにすると「やる気」を育てることができるのです。
勉強したら教師や親に「ほめられた」というよい結果と,「おこられなかった」というよい結果。この二つを比べると,どちらが勉強する気になると思いますか?もちろんほめられたほうです。この本にはほめられたことがやる気につながる仕組みがわかりやすく書かれています。また,これら2種類のやり方で形成された勉強という行動に,その「よい結果」が伴わなくなったとき−−−つまり勉強してもほめられなくなった,あるいは勉強しなくてもおこられなくなったときに,その行動がどうなるかという比較がなかなか面白いです。
この本を読んでから,生徒の行動に対して与える賞賛の意味が自分の中で少し変わりました。以前はどちらかというと「それが望ましい行動です」というメッセージとして賞賛を用いていたような気がしますが,今はそれよりも将来に向けてやる気や主体性を育てているという,そういうところに重点が移りました。賞賛場面で,賞賛がやる気につながるメカニズムを常に意識してやっています。それから,罰を与えたりおどしをかけるようなやり方に,より根拠を持って対抗することができるようになったと思います。
その他,例えばカウンセリング場面でクライアントがカウンセラーに対していだく感情についての話も興味深いものでした(第四章)。以前,高校生といろんな悩みについて相談にのっているときのことを思い出して納得しながら読みました。生徒の心の問題について相談にのるときに,相談の過程で生徒が相談相手の先生にいだく感情のことを知っていないと,時には誤った対応をしてしまうということがわかりました。
最後にサービスで,第三章と第四章の中味をどどっと紹介!
第三章 やる気を起こすメカニズムがある
第四章 「心の動き」がわかればもっとラクに生きられる?
いかがでしょう。読みたくなってきました?(^_^)(2000/07/02 5:54)
今日は名取養護学校の運動会の日です。天気はよさそう。それで昨日,床屋さんで髪を切りながら運動会の思い出話に花が咲いたのですが,こちらにも書いてみましょう。
私が学んだ中学校(鶴岡第一中学校)は,運動会(体育祭)が盛り上がることでけっこう有名でした。生徒も先生たちも勝負にこだわり,勝っても負けても最後はみんなで涙を流すという結末が多かったです(青春ってかんじですね)。今は廃れた(?)棒倒しもやっていましたし,騎馬戦は上級生・下級生入り交じって「倒されたら負け」というルールでやってました。少年時代に持っているある種の闘争本能に火がつくという感じで,みんなけんか一歩手前の状態でした。それを先生たちも応援するんです。時には先生たちが判定を巡ってけんかをするときもあったりして−−−時にはじゃなくて毎年けんかしてましたね−−−,マイクを使ってけんかする先生たちを見て私たち生徒も楽しんでました。騎馬戦は時間制ではなくて,全滅したら負けだったので負けるチームは最後に必ず一騎だけ残るのです。その一騎が相手数騎に取り囲まれて孤軍奮闘しているのを,そのチームの生徒全員がまるで自分の命を託したかのように一生懸命応援するわけです。双方一騎ずつ残って,それこそ一騎打ちになったときは応援も最高に盛り上がりました。
応援合戦もけっこう力が入っていて,甲子園のPL学園のスタンドを思わせるような人文字応援をするんです。陣地はやぐらを組んで野球場のスタンドのように階段状になっています。その脇にはチームを象徴する看板が「疾風怒濤」とか「雷神風神」などの言葉とともに掲げられます。応援練習は,そのチームの3年生(特に応援団長)が中心となって,下級生を指導します。これで3年生は男子も女子も下級生に人気がでるんですよね〜。懐かしい。
こんな運動会,今でもあるのかな。床屋さんの話では,今は運動会はあっさりと終わらせてしまうところが多いとか。上級生と下級生の気持ちが通じ合う場になったり,力と力のぶつかり合いをしたり,みんなで涙を流し合ったり,そういうことのために時間を使ってくれる学校が,まだあるといいのですが。(2000/05/27 6:05)
昨日の朝日新聞の社説は,「つながりを回復する−子どもたちはいま−」という見出しで,高速バス乗っ取りをはじめとする近年の少年による凶悪犯罪とその背景について論じています。70年代に家族のあり方が「教育を中心に据えた家族」に変化したこと。それによって子どもの生き方が「自分の夢や願いを抑え,ほかのだれかの期待に沿って生きる」という抑圧されたものになっていること。また子どもたちが「支配と服従のような貧しい人間関係」のなかで生きていると述べているあたりはとても共感できます。
ところで,この社説の中に総理府青少年対策本部が中高校生2000人に行った「青少年と暴力に関する研究調査」(1981年)の結果がひかれています。いじめや仲間はずれを「絶対にすべきでない」と答えた中学生は67%だったとのことです。それを読んで思ったことは,いじめの存在を絶対悪として撲滅しようとしても難しいだろうなということです。「いじめは絶対ダメ」「あってはならない」と,誰の心にもあるだろう「いじめる心」を封印するよりも,いじめへの対処法をみんなで考える中で自分のいじめる心に気づいたり,実際にいじめがあったときにそこから身を守る方法を知ることの方が現実的で大事なことなんじゃないでしょうか。こういうのは総合的な学習でいけるんじゃないかな〜。(2000/05/06 7:06)
やはり新学期,それも転勤直後となると,予想以上に疲れるものですね。いくら寝ても体がだるいです。読みたい本もただ持ち歩くだけ,要返事のメールもたまりっぱなし…。2〜3日なにもしないで家でじっとしてたい。
といいながら,昨日の日曜日,LAOXで Palm Vx (http://www.palm-japan.com/)を購入しました。手のひらサイズのPDAです。予定表,To DO LIST や住所録などに使えるほか,会議のメモをしたり,メールを送受信したりできるちいさなコンピューターです。いつも使っているPowerBook G3 との同期が簡単に取れるのがこのマシンの特徴です。(2000/04/17 6:23)
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私がいつも使っているメーラー(ARENA Internet Mailer)と Palm Vx の同期ができるようになりまして,未読メールをARENAから手のひらサイズのハンドヘルドコンピューター Palm Vx に移してバスや電車のなかで読んだり返事を書いたりする環境が整いました(まだ送受信はできない)。今日は中学部の歓迎会で,夜はお酒を飲みに行きます。さっそく電車と地下鉄のなかでメールを読んでみよう!(2000/04/21 6:14)
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予約していた携帯電話がやっと入荷したので取りに行ってきました。ノキアという会社のNM502iです。赤外線通信がこの携帯の特徴で,私の PowerBook G3 や Palm Vx と赤外線で情報のやりとりができます。土日の二日間で設定を終えて,PowerBook G3 や Palm Vx でメールの送受信やウェブサイトの閲覧ができるようになりました。i-mode のメールも Palm Vx で書いてから携帯に転送して送信できます。そのほうが日本語入力が楽なのです。接続速度は普通の電話回線の半分なので遅いですが,どこでもインターネットにつながるというのはなかなか快適です。
ところで,携帯電話の i-mode で自分のページを見てみましたが,フレームが見れないので「ひとこと」を読めないんですよね。特殊教育HeadlineNEWSはうまく読めましたが。こうなると i-mode 版のページも作りたくなりますね。(2000/05/22 5:52)
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インターネットには,著作者の死後50年以上を経て著作権が消滅した作品や著作権者が公開に同意した作品作品を無料で公開しているページがあります。
青空文庫や青空文庫パーム本の部屋では,芥川龍之介,オー・ヘンリー,太宰治,夏目漱石,新美南吉,宮沢賢治,森鴎外など,1000冊近くの作品が公開されています。ファイル形式は,テキストファイルの他,HTMLやエキスパンドブックの形式もそろっていて,自分の好きな読み方ができるようになっています。
私の場合は,テキストファイルをダウンロードして Palm Vx に入れて持ち歩いています。ちょっとした待ち時間や休憩時間に,Palm で気軽に読書ができるようになりました。画面が小さいのでやっぱり普通の本よりは疲れますけど,ちゃんと縦書きにして読めるのでけっこう本を読んでいる雰囲気になります。(2000/06/04 6:29)
さて,先日タローと二人で一番町に買いものに行きました。背中にパソコンのリュック,おなかにタローという出で立ちで(合わせて10kg超),三越,本屋さん,お茶屋さん,雑貨屋さんなどを2時間ぐらいかけてまわりました。ちょっと困ったのは三越でトイレに行ったとき。そのままできるかなと思っていたのですが,いざ便器の前に立ってみるとタローの足が便器のほうに入っちゃうんです(小のほう)。ちょっと考え込んでしまいましたが,ちょうどトイレの前に買い物用のベビーカーが置いてあり,それに乗せてトイレに付き合ってもらいました。女性用トイレだと赤ちゃんを乗せる台のようなものがあるらしいですが,さすがに男性用にはなかった。男性用にもそういうのをつけてほしいです。(>三越さん)(2000/03/27 6:09)
先日,宮城県の女川町の山中に自衛隊機が墜落してパイロットが死亡しました。その記者会見を見て,上司の方の「関係各位にご迷惑をかけたことを遺憾に思う」というコメントにとても違和感を感じました。その前に「ひとりの有能な隊員を失って悲しい」というコメントはないの?パイロットは自分の命をかけてその仕事を遂行していたのではないの?あなた達とこころざしをともにする仲間ではなかったの?
民家が近くて住民に衝撃を与えてしまったということはたしかにあるだろうけれども,ひとりの人間が死亡したことと,関係者に迷惑をかけたこととどっちが大事なことなんだろう?部下の仕事や人生に敬意を表せない,そんな上司のもとで私は働きたくないと思いました。記者会見の言葉と心のなかでは違うのかな。せめてそうであってほしいです。(2000/03/24 5:44)
portfolio(ポートフォリオ) |
英和大辞典をひもといてもちょっとドンぴしゃの訳が載っていないのですが,自分の仕事の実績表のようなものをポートフォリオというのだそうです。例えば建築家なら,自分が今まで設計した家の図面や写真がとじられているもの。デザイナーなら自分のデザインした服を写真でクリップしているもの。自分が今までしてきた仕事の実績を,自分を知らない人にもわかるようにまとめたものです。仕事上の「自分パンフレット」ですね。それは,自分がどのように仕事をしてきたかという「プロセスの記録」でもあります。
鎌倉の知人(というより恩師というべきか)と教員の研修の話をしながら,研修内容に枠をはめるのは不可能だということを考えていました。教員として研修する内容は多岐にわたるし,一人ひとりの教員の興味やニーズも互いに大きく異なるわけですから。そこに必修の研修を入れていくというのは,いくらその研修がいいものであったとしても効果はどれほどのものだろうと。かえって弊害のほうが大きいかもしれないなんて考えていました。
その時に,自分の研修のポートフォリオをつくればいいんだよと教えてもらったのです。自分は教員になってからこのように研修を積んでこんな指導をしました。そういう教師としてのポートフォリオをつくればいいと。つまり,内容に枠をはめるのではなく,研修することに枠をはめるのです。
もちろんそのポートフォリオは,教員としての評価の対象になります。評価を得るためには,自分から積極的に研修に参加することはもちろん,その研修が自分をどう変えて,日々の指導にどう活かされていったかということを振り返って,それをアピールすることが必要なのです。少し前に教員の勤務評価について「ひとこと」で書きましたが,こんな勤務評価なら私は大賛成です。(2000/03/16 5:26)
先日横浜のセミナーで30分の時間をいただいて,自分の特殊教育の世界での5年間を振り返って報告してきました。その発表に使った資料(プレゼンのスライド,発表原稿,ビデオ)は,私のポートフォリオのひとつです。5年ひとくぎりで,本当にいいタイミングで自分の仕事をまとめる機会を与えていただいたと思います。ひとつの大きな財産ができました。
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16日にポートフォリオの話を書きました。それを読んだ知り合いの先生(幼稚園)から「ポートフォリオなら鈴木敏恵さんがおすすめだよ」と教えていただき,さっそくSherlockで検索してホームページを読んでみました。
私が考えていたのは教員の研修の評価としてのポートフォリオですが,鈴木敏恵さんが進めているのは生徒の学習の評価としてのポートフォリオです。なるほど。これはいけますね!
先日,TVニュースでみたのですが,アメリカのどこかの州の検察局で喫煙者を採用しないことを決めたのだそうです。その理由は二つ。(1)喫煙者は仕事中にたばこを吸いに行くため勤務時間内に遂行する仕事量が減り,その分たばこを吸わない人の仕事量が増えてしまう。(2)喫煙者は将来病気になる確率が高いので,それに伴う出費がかさむ,ということです。
それで,私が気に入ったのはその決定についての喫煙者と検察局の意見です。喫煙者は「たばこを吸うことで健康に悪い影響を与えるのは知っているよ。でも,吸うか吸わないかは俺の問題だ」と言いました。最後の言葉は英語で「It's my business」なんですけど,この「It's my business」という言葉が私はとても気に入りました。そういう意見に対して検察局は,「たばこを吸う権利を否定はしません。だけど私たちはたばこを吸わない人と仕事をしたいのです。たばこを吸いたい人はどうぞ他の職場に行ってください」と答えたのです。この見解もとても好きです。自分が一緒に働く人のことを自分で選ぶんだ。どういう人を採用するか決めるのは「It's my business」だというわけです。(2000/02/09 3:40)
日頃,私は日本人に向かって「It's my business」とか「It's not my business」と言いたくなることが多いです。自分の問題と他人の問題をしっかり区別できてない人が多いんじゃないかと思います。例えば,自分の言動が相手の気分を害したとします。それはどっちの問題ですか?自分?相手?私の感覚ではそれは相手の問題です。私の責任の範疇ではありません。誰かの行動や発言をどういうメッセージとして受け止めるか。それを決められるのは,メッセージを受け止める本人だけです。どう理解してもどう曲解してもいいんです。だけどもしそれによって気分を害したとき,それは君がそう言ったからだ(そういう行動をしたからだ)と,相手のせいにするのはおかしい。自分の言動で誰かの気分を害するというのは気持ちのいいものではありませんが,私は「あなたの気分はあなたの問題」と割り切って気にしないことにしています。相手の気分についてあれこれ心配することは,私にしてみれば「It's not my business」です。(2000/02/11 6:54)
差別語なんていうのも同じです。先日あるメーリングリストで「それは間抜けな発言だ」と言われた人が「人格を否定された」とかみついて大論争に発展したということがありました。ある発言を「間抜け」と言われたぐらいでどうして「人格」の問題になるの?というのがその場での結論になり,結局そのかみついた人は静かになったんですけど。その論争の中で「差別語を使用しないようにルールをつくるべきだ」なんていう人が現れて,私は興味を引かれました(「間抜け」が差別語かどうかは置いといて)。
私は「一般的に定義できる差別語」というのはないと考えています。ただし,「その人にとっての差別語」というのはあるのです。発信者が差別の意識なく使っていても,受け止める人がそう感じればその人にとっては差別語なわけです。ということは差別語というのは社会一般に通じる問題ではなく,二人の間に生じる固有の問題です。ところが,自他の境界が不明瞭な人は,自分が差別語と感じる言葉を他の人も同じように差別語と感じていると思ってしまうようです。当事者間の問題を社会全体の問題ととらえてしまって,「この言葉を使わないというルールを作りましょう」なんて言葉狩りに走るのです。
どういう言葉を使うかは「It's my business」です。そしてそれをどう解釈するかも「It's my business」です。差別語を使われたと思ったら「私にはその言葉は差別に聞こえる。私に対してその言葉を使わないでください」と言えばいいんです。二人の問題に,社会全体を巻き込んじゃダメ。
というわけで,「It's my business」という言葉に触発されて,日本人にはもっと自分の問題と他人の問題をしっかり分けて考えてほしいなと感じている私の気持ちを文章にしてみました。(2000/02/12 8:15)
教師はもっと暇なほうがいいんだと思うのです。「忙」という字は「心」が「亡くなった」状態を表しているなんて言いますけど,まさにこれは教師のための言葉のようです。いろんな仕事に追い立てられて「忙しい,忙しい」と言いながら働いていますが,その中で一番大切な子どもたちへ向ける気持ちや時間がどっかにいってしまっているような気がします。皆さんの学校の職員室に,灰色の男たちが出入りしていませんか?よくよく注意して探してみてください。(2000/01/24 5:53)
◆
最近,子どもが心に痛手を負う災害や事件が多いですね。阪神淡路大震災,神戸の小学生殺害事件,京都の小学校での殺人事件など。子どもたちの小さな心は,悲しみとか怖さを受け止めきれずに,彼らはその後も長いこと精神的なストレスにさいなまれているようです。
こういう大きな災害や事件ではなくても,子どもたちは成長にともなっていろんな精神的ストレスを抱え込みます。成長するということは,ある意味それ以前の自分を壊し続けるということですから,それにともなうストレスは相当なものでしょう。子どもの心の成長には,大人の助けがどうしても必要だと思います。彼らの身近な大人たちといえば,まずは家庭にいる大人,次が学校にいる大人ということになります。
だけど,家庭の大人も学校の大人も,なんだかいつも忙しい。さりげなく発信するSOS信号にも気づいてもらえないと,子どもはそのストレスを自分で抱え込まざるをえない。必要とされているときに子どもの相手ができないのでは,「先生」として存在している意味がかすむように思います。
必要とされているときに相手をするためには,いつも仕事をかかえててはダメなんです。自宅にまで持って帰るほど雑用を抱え込んでいてはダメなんです。一番大事なことのために,時間をあけておかないと。だから,普段の教師は暇な方がいい。「いついつまで」にあれを「しなくてはいけない」などという仕事はできるだけ排除したいものです。(2000/01/25 4:13)
◆
昨日は前の学校の教え子−−−と言っても担任したことも授業を受け持ったこともないので教え子と言えるかどうか−−−が,子どもを連れてうちに遊びにきてくれました。高校時代はもう10年前だと言われて,あらためて自分も歳をとるわけだなんて思いました。子どもは3歳。遊び盛りで部屋の中をグルグル走り回っていました。うちのタローもやがてこうなるんだろうなあ。しかし,教え子が自分の子どもより大きな子を連れているって,ちょっと不思議な感覚。(^_^)
その生徒たちを教えていた高校の教員時代のことを,すこし書いてみたいと思います。これは「教師は暇であるべき」という話の続きです。
その高校には4年間勤務しましたが,そのうち3年間は担任でした。担任した生徒の中に,精神的に乗り越えなければいけない壁にあたって,そのために自分の教室で学習できなくなった生徒たちがいました。普通なら,教室にいられない生徒の居場所は保健室なんでしょうが,その当時私はいつも「地学準備室」という部屋に一人でいたので,生徒にはそこで自分の勉強をさせることにしました。朝,地学準備室に登校して,そこで一日いろんな勉強をして,そこから家に帰っていく。私が隣の地学室で授業をしているときも,地学準備室で授業の準備をしているときも,生徒はそこで自分の勉強をしていました。ときどきその合間に,生徒と二人で雑談したりもしました。どんな話をしていたかなあ。たぶん生徒の悩み事を話されるままに聞いたり,たわいもない世間話をしたり,きっとそんな感じだったでしょう。そうやって地学室登校を続けた生徒たちは,やがて自分の意思で教室に戻っていきました。こちらがさびしく感じるくらい,あっけなく何事もなかったように。それで,ああ,彼らに対するぼくの役割は終わったんだなと思ったものです。
精神的につまずいた生徒たちを,すべてこのように見守れたわけではありませんでした。予期しない結果に終わってしまったこともあります。だけど,地学室登校した生徒たちとゆっくり過ごした時間は,私にとって−−きっと彼らにとっても−−大切な時間でした。今,ミヒャエル・エンデの「モモ」を読み返しているのですが,教師が与えられる生徒への一番のプレゼントは「時間」のような気がします。(二番目は「承認」かな)(2000/02/06 6:56)
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生徒への一番のプレゼントが「時間」だと言っても,生徒に与えられる時間は最大8時間(=勤務時間)。それ以上は無理です。だって,そうしないと生徒より(たぶん)大事な家族と過ごす時間や自分のための時間がなくなってしまいます。
限られた時間を,生徒とのゆったりとした時間に当てるためには,放課後の時間の使い方を工夫する必要がありますね。私の場合は,放課後の時間をもっとも圧迫していたのは授業の準備でした。他にも部活の指導とか,教務の仕事(時間割変更,成績処理など),会議などもありましたが,やはり授業の準備に一番放課後の時間を費やしていました。
昔,教員に成り立てだった頃,多くの先輩教員から「1時間の授業の準備は2時間やれ」なんて言われました。今でも新人はそう言われているのかな。私はけっこう授業に命をかけていたので,実際に2時間以上準備に費やされることも少なくありませんでした。国語や数学など,同じ授業を学年のクラスの数だけ繰り返せる科目はそれでもやっていけるかもしれません。しかし,地学の場合,3学年全部を受け持って,しかも同じ授業を繰り返せるのはよくて2〜3クラス。1回やっておわり(1回の準備で1回の授業しかできない)というもの少なくありません。毎日毎日,準備すべき授業がおそってきます。授業の準備はいつも自転車操業で,明日の準備を今日やる,あるいは今日の準備を今日やるという感じで大変でした。もちろん,家に帰っても授業の準備,土日も授業の準備。(しかし,これを書いていて「小学校の先生はどうしているんだろう?」と疑問を持つ)【続く】(2000/02/13 7:51)
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朝日新聞社会面の連載「少子の新世紀」で,地域から子どもを排斥しようとする大人たちについて紹介したものがありました。子どもの声がうるさいということで,すべり台をよその公園に移動させたり,保育園の移転に反対運動を起こしたり。手元に記事がないので記憶を頼りに書くと,たしかそういう反対運動の先頭に立っているのは老人のようでした。老人になると,自分が子どもだった頃のことや,自分が子育てをしていた頃のことを忘れてしまうんでしょうか。その老人たちには孫がいないんでしょうか。
子どもを地域社会から排斥しようとする人たちの行動には大きな違和感を感じますが,その一方で少子化にともなってそういう動きが出てくることには納得がいきます。早い話,身近にいないから嫌がる,身近にいないから怖がる,ということだと思います。地域社会に子どもたちがたくさんいて,どこにいても子どもたちの元気な声が聞こえてくるような社会なら,子どもを排斥しようなどと思わないでしょう。子どもが少なくなって,しかも子どもの居場所がかたよってきて(学校と家と塾など)地域社会から子どもの姿がなくなってくると,普段子どもとまったく接点のない生活を送る人が増えてきます。そういう人の中から,子どものいる生活を忘れてしまって身勝手な考えになってしまう人もでてくるのでしょう。
身近にいないから嫌がるとか怖がるというのは,例えば外国人(特にアジア系の)に対しても同じような問題がありますね。あるいは障害者に関しても,同じような問題が起こります。私の勤める学校の近くの大きな住宅団地でも,障害者の施設を建設しようとして大規模な反対運動が起こっていました(その後どうなったのかな)。その住宅団地はこぎれいな団地で景色もいい場所だったので,自宅を建てる候補の一つだったのですが,そんな反対運動を起こす人たちと一緒に暮らしたくはないなあと思ったものです。
こういう「無知」によるコミュニティからの排斥という行為は,きっと「違いを認める」とか「違いを尊重する」という教育を受けてこなかった人たちによるものなのでしょう。教育の質がこういうところに現れるなあと感じます。今,小学校ではこういう「違い」を大切にする学習を行うところが増えているようです。今の子どもたちが大人になる頃には,改善されているのでしょうか。(2000/01/22)
「教育学部では論文を読まなくても卒業できるのではないか」という私の疑問について,二人の方とメールのやりとりをして私なりに現状の認識ができました。それをまとめると次のようになります。
1〜3については,「やっぱり」と思います。先生たちに論文の話をしてもいまひとつノリが悪いのは,論文を読んだり書いたりする経験が不足しているからなんだと納得しました。4について,例えば理科の先生になるには理科関係の卒論を書くわけですから,それにかかわる論文はさすがに読んでいるだろうと期待していましたが,実際は時間の制約で十分に読んでいるとは言えないようですね。5については,ちょっと考えさせられました。これについては長くなりそうなので,また次回。(2000/01/16)
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論文の話の続きです。「教師はどうして論文を読まないんだろう?」という疑問を出発点にしていろいろ考えてきました。その疑問のそもそもの発端は「自分の教育技術(専門性)を高めようとする姿が見えない」ということです。専門性を高める方法は下にあげたようにいくつかあると思いますが,「論文」はその代表例と考えています。
◎自分の専門性を高める方法(の例)
この中で1,2については大学の正規のカリキュラムで何とかできないかと思います。
1ができるためには,論文や書籍を読むための基礎的な知識が必要です。大学ではそれをできるだけ広く教えてほしいです。教官の得意分野だけではなく,自分の考えに合わないことも含めて全般的に教えてほしいと思います。そうすれば,学生は将来その中から自分のニーズに合わせて学びたいものを自分で選んで,深く学ぶことができるでしょう。
教員養成課程には,大講義室での一斉授業も多いと聞きます。それでも,やり方しだいで学生に論文や書籍を読ませる機会を与えられるのではないでしょうか。ひとつの論文を素材にして,みんなで徹底的に読んでもいいし,指定した論文や書籍についてレポートを提出させてもいい。レポートの場合は,学生が書いたレポートの要旨部分をプリントして全員に返してあげられたらもっといいと思います。(このホームページにある「特殊教育HeadlineNEWS」のように)
また,2については,ひとつの例として学生をいろんな学会に引っ張っていってほしいです。願わくばそこで発表させてほしいと思いますが,それはさすがに指導の時間がないかもしれませんね。でも,聞きに行くだけでも,普段自分が論文でお世話になっている人を実際に目の当たりにして,場合によっては質問したり,教授から紹介してもらったりして,人脈を広げることができるでしょう。それは将来教師になってからも宝物になると思います。学会でなくても,指導教官が地域でかかえているネットワークに学生を参加させるというのもいいです。外部講師として来てもらったり,研究会に連れていったり,こちらもいろいろ工夫できそうですね。そういえば,昨年仙台で開かれた自閉症セミナーのあと,明星大学の先生と飲んだのですが,その先生は自分が指導している学生をそのセミナーに連れてきて,なんと飲み会にまで連れてきてくれました。学生にとってこういう刺激を受けたことって,後々まで影響を与えると思うんですよね。
3については,ちょっと正規のカリキュラムでは難しいかなと思います。こういうのは,サークル活動として自主的にやるのがいいかな。
ところで,教員養成課程のいくつかの問題は,大学の教官や学生が個人的にがんばるだけでは解決しようのないもののようです。組織上の問題があるということです。これについては,もう少し考えてから書ける場合は書ききたいと思います。(2000/01/20)
今,@niftyの障害児教育フォーラム専門館(FEDHANS)の自閉症の会議室(9番)で,養護学校の教員が,ほとんど論文を読まないという話がでています。私もここ数年,同じようなことを感じていました。私が特殊教育の世界に入って5年がたとうとしていますが,その間,教員同士で論文を読み合ったり論文に書かれていることを議論し合ったりという経験はまったくありません。それどころか,他の先生が論文を読んでいるところを見たこともほとんどありません。
私は理学部出身なので,大学4年生になったときにその学科に関係する学会(鉱山地質学会;今は資源地質学会と名前が変わりました)に入り,論文を読むのはもちろん学会にも連れていってもらいました。大学院に入ってからは,当然のようにその学会で自分の研究を発表することになりました。
そういう経験を経てきているので,私には自分の仕事に関係する学会に入って論文を読むことはあたりまえだという感覚があります。しかし,自分の身の回りを見て例えば「特殊教育学会」に入っている人はほとんどいませんね。百歩譲って学会に入っていないけど論文は読むなんていう人も,残念ながらいないようです。
私は教育学部の指導に問題があると勘ぐっています。教育学部では論文を読まなくても卒業できるんじゃないでしょうか?教育学部出身の皆さんに,このことをぜひ聞いてみたいものです。(2000/01/08)
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教育学部の教員養成課程は論文を読まなくても卒業できるという私の勘ぐりはあたっているのでしょうか?
大学時代に論文を読まなかった人に,教師なんだから論文を読めと押しつけても読まないでしょうね。だって「論文」なんていかにも小難しくて読んでも分からないものという印象がありませんか。でも,そういう先生たちにも,私は論文を読んでほしいと思います。日本特殊教育学会の学会誌「特殊教育学研究」には,毎日の教育実践に直接取り入れられそうなおもしろい研究がけっこう載っているんですよ。読むとすごく刺激を受けるし,ためになる。
私がこの「特殊教育学研究」の論文をダイジェストして紹介する「特殊教育HeadlineNEWS」を作っている理由のひとつは,この学会誌に載っている様々な刺激的な論文の存在を,職員室の先生方にも知ってほしいからです。でも,どうなんだろう。私の「特殊教育HeadlineNEWS」を読んでくれている先生はいるようですが,それを読んで実際に論文にあたっている人はいるのかな?もう少し,押しが足りないかもしれません。だけど個人でやるのはこのくらいが限度でしょう。(^_^;)
私は,よく大学で行われている論文講読会を学校でも研修としてやったらいいと考えています。輪番制である論文を読んできて,それについて10〜20分で発表するというものです(その後質疑)。図や表,それから内容の大まかなダイジェスト(要約)を資料として配布します。聞く方もできるだけその論文に目を通してきて,疑問点や話題を考えてくるといいでしょう。私の場合は学部にあがった大学3年生から,その講読会に参加することを義務付けられていました。はじめて英語の論文を読んだときの苦労は忘れられません。(^_^;) 文章中のHFという単語が何を調べてもでていなくて途方に暮れて質問にいったら,水素(H)とフッ素(F)のくっついたフッ化水素の化学式だったということもありました。日本語の文中にでてくればすぐに分かるものでも,英文の中だと分からなくなっちゃうんですよね(脱線)。もちろん,特殊教育学研究は日本語で書かれているので,それよりもずっとずっと楽です。
論文講読会は学校全体でもいいのですが,できれば少人数の方がいいです。同好の仲間で集まって,興味のある分野の論文を読み合うようにすれば最高ですね。学校としては,そのための研修の時間を時間枠でとってもらう必要があります。例えば,火曜日の3時半から4時半が論文講読会ですというかんじに。
どうでしょう,こういうの。私はワクワクするんですけど。(2000/01/09)
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私は現在の養護学校教育のレベルに満足できません(うちの学校がというわけでなく全体的に)。私も含めて教師はもっと多くの勉強をするべきだと思っています。ところが,勉強する時間は日々の仕事に追われてなかなかとれないのが現状です。若い頃は仕事に向ける時間が無尽蔵にあるような気がしましたが,結婚して子どもが生まれたりすると,逆に仕事に費やせる時間は勤務時間の8時間が精一杯です。そしてその貴重な勤務時間も,会議やら草取りやらなんだかんだで消えていきます。言い訳に聞こえるかもしれませんが,こういう状況の中で「もっと勉強しようよ」と呼びかけてもむなしいだけです。
ところで,私たちは勤務時間内に学校で「研修」と名の付くものを行っています。うちの学校を例にすると,研究授業やその事前・事後の検討会,外部から講師を呼ぶ講演会,そして学部ごと(高等部とか)に月1回ずつある研究日など結構あります。研究授業は学校全体では1年で10回近く行われますから,その回数だけ事前・事後の検討会もあるわけです。指導案の検討会は1回で済まないことも多いですし,それらを考えると研修のための時間はけっこう保証されていると言えるかもしれません。
しかし,時間があるからといって効果があがるわけではありません。学校で行われる研修はぜんぶ「集団学習」です。内容が個人の興味やニーズに合っていないことも多いし,そうなると必然的に(?)話し合いの場で居眠りする人もでてきます。費やす時間のわりに得るものが少なすぎると思います。
それから研究授業の事後検討会などに出ていて思うのですが,同じ程度のレベルの人同士でいくらいっしょうけんめい話し合っても,議論は前に進んでいかないのです。他の学校ではどうやっているんだろう,研究の最先端ではどういうふうになっているんだろう。そういう,場面を転換してくれるような,見方を変えてくれるような材料がないのですから。議論が前に進まないと言うことは,堂々巡りで終わるということです。悩みを分かち合っておしまい。知識が増したわけでも,技術が高まったわけでもない。これが「研修」なんでしょうかね。
養護学校の教育のレベルを底上げするためには,まずはじめに勤務時間内に行われる研修の内容をもっと合理的なもの,費やす時間に見合う進歩が期待できるものにしていくことが必要だと思います。昨日書いた「論文購読会」は,私なりの解決策のひとつです。他に,一般書籍を読み合わせて勉強会をするというのも悪くないですね。「行動分析学入門」とか「認知心理学」のシリーズとか,みんなで勉強したい本は結構あります。来年度はゲリラ的にそういう勉強会を立ち上げてみようかな。また忙しさに拍車がかかるけど。(2000/01/10)