Sphinxのつぶやき

1998年のつぶやき

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神様とAA(アルコホリック・アノニマス)

今日はクリスマスイブです。大人たちはサンタさんが「いない」ことを知っていますが,多くの子どもたちはそうではありません。寝る前にちゃんと靴下を用意し,サンタさんがどこから入ってくるのかと心配しながら寝床につきます。彼らの心の中には本当にサンタさんが存在するようです。「いる」と信じることで心の中に実在するようになるんですね。信じるってすごいパワーを秘めているものですね。

信じることで存在するようになるのは,神様も同じ。神様も,「いない」と思う人のまわりにはいないし,「いる」と信じる人のまわりにはちゃんと存在するようです。

ところで,神様の存在を信じる人にはその御利益があるでしょうか?あるいは御利益があるから神様を信じているのでしょうか?サンタさんの場合は,お父さん(またはお母さんとか先生とか)が御利益を代行してくれるのでプレゼントが届きますけど,神様からのプレゼントを代行してくれる人はいませんよね。神様には期待しちゃだめなんですね。ただ信じて,すべてを受け止める。楽しいことや辛いこと,それらはすべて神様の思し召し…そう信じることから生きるパワーが引き出されるのだと思います。

私は,自分の心の中にある神を信じています。というか,地球上にはさまざまな宗教がありますが,それら既成の宗教を飛び越えたところに神の存在を信じます。人間が考え感じていることのすべての上に偉大なる力を感じたいのです。そういう宗教観(?)をもつ私が共感を覚えるのが,アルコール依存から脱却しようとする人たちのグループ −AA(アルコホリックス・アノニマス)− の12ステップといわれるものなんです。3つずつに分けて紹介します。

この3つは,自分の行動を自分で管理はできないんだと敗北宣言し,自分よりも偉大な力に身をゆだねる(ハイヤー・パワーを受け入れる)ことを表明しています。私はこの「ハイヤー・パワー」という言葉がとても気に入っていて,私は人生の中で起こるいろいろな出来事に対して,AAの方を見習って「ハイヤーパワーの思し召し」と思うようにしています。

今までの生き方が誤りだったことを認めて,その改善を「自分で」やるのではなく,「ハイヤーパワー」にゆだねてしまいます。自分でやろうとするということは,自分で自分をコントロールしようとすることです。依存症は,「自分や他人をコントロールしようとするたくらみ」がその原因になるわけですから,自分で直そうとすることは問題の解決には結びつかないんですね。自分が無力であることを認めるところから,救済が始まるのです。

ここでは過去に起こした人間関係上の過ちを認識して,そこから逃げずに人間関係を作り直そうと決意するところです。アルコール依存症の人が起こす人間関係上の過ちというのは,酒に依存することによって周囲の人々をコントロールしようとたくらむことです。多くの場合,そのたくらみに簡単に乗せられてしまうもう一人の人物が存在し,その二人が共同してアルコール依存症ができあがります。

乗せられてしまうもう一人の人物の多くは依存者の配偶者です。その人は「相手にいろいろお世話することによって,その人をコントロールしようとたくらむ人」です。酔っぱらって帰ってきた夫を優しく介抱し,朝は会社に欠勤の連絡をしてあげて…酒浸りの夫にかいがいしく尽くします。心の中では「私がいないと,この人は生きていけない」と思っているような人です。

この二人の関係が「共依存」と呼ばれるものです。今紹介しているAAの12のステップは,依存者だけでなく,その依存を支えてしまっているもう一人の「共依存者」の回復にも役に立つのです。

この中で興味深いのは最後の文章です。アルコール依存から脱却するために,別のアルコール依存者と共に過ごしたり,自分がどのようにして飲まなくなったかを別のアルコール依存者に伝えることが,その人が依存から立ち直ったり,断酒を継続することに役立つということが知られています。

この事実から,「教える」ということが,相手のためだけではなく自分に返ってくるものだということを,私は再認識しました。私の経験でも,何かを教えることでそれをより深く理解できたということが数多くあります。教育は一方的なものではなく,双方に変化をもたらすものなんですね。

いかがでしょう。あなたにはハイヤーパワーの思し召しがありそうですか?

共依存者の特徴は,自分や他人をコントロールしようとすることです。戦後の日本の高度経済成長の中で,夫は生活のほとんどを仕事につぎ込み(仕事依存),その妻は家事の一切を引き受け(夫を依存に導く環境づくり),互いにその役割分担を進んで担ってきました。まさに自分や他人をコントロールしながら社会を成長させてきました。そして,彼らは自分の子どもさえもコントロールの対象とし,不登校や家庭内暴力をはやらせました。

このハイヤーパワーの思し召しを必要としている人は,アルコール依存症の患者やその家族だけではないのです。現代の日本人の多くが,これを必要としています。私もそうでした。きっと,あなたも…。さあ,今日からAAの12のステップを自分のものとして,共依存的社会から脱却しましょう!

教育の場面での「対話」

予備校の教室の一番前で,靴を履いたまま自分の足を机の上に投げ出している生徒に「やめなさい」としかったところ,「なんで?」と切り返されて二の句が継げなかったという教師の話が,かなり前の天声人語に載っていました。私としてはその教師にちょっと同情を感じつつも,もう少しうまくやってほしいと思ってしまいました。生徒が「なぜ?」と聞いてきているのですから,「なぜだと思う?」と対話に持ち込んだらどうでしょう。教育はそこから始まるんじゃないしょうかね。

教育は「対話」になっていなければいけないと,最近強く思います。人は知識や思想を誰かに与えられただけでは変わりません。先の予備校生に「それは,悪いことだからだ」と教師の価値観を与えても,あるいは「何言ってんだおまえは!」(ボカッ)と怒っても何も解決しませんよね。一方的に知識を与えたり罰を与えたりすることだけでは,その人の本質は何も変わらないでしょう。自分の頭や心で自分の行動の意味を考える…それによってその人の行動に変容がみられたらそれが学んだということではないでしょうか。自分の考えと他者の考えをつきあわせて,そこから新しい自分の考え−−−時には思考のための枠組みそのもの−−−を生み出していく作業,それが対話です。

私は,昔から一斉授業を聴くのが苦手でした(1対1での議論なら大好きです)。自分の思考と授業のスピードがあわないのです。同じ授業を受けていても,つまずいたり考え込んだりする場所は一人一人違いますから,一斉授業は「対話」になりにくいんですね。対話になっていないと,授業を受ける側は自分で考えることができません。与えられたものを受け取るだけで終わってしまうのです。時間の効率を考えれば,一斉授業で知識を注入するのが一番早いんですが,日本の教育は一斉授業に偏りすぎているように思います。そういう教育がつもりつもると,「対話」しない人たち,あるいは自分の頭で考えない人たちを大量生産することになるのではないでしょうか。

#オウム心理教の科学者たちを思わず連想してしまう…。

別な角度から言うと,日本のような共依存的社会では,そもそも対話などあり得ないのかもしれません。共依存関係のなかで,相手との会話は相手をコントロールしようというたくらみに用いられます。対話というのは相手の言い分を尊重するところから始まるわけですから,最初から自分の言い分が正しくて相手が間違っているというような考えで会話を始めても,それは対話とはとても言えないような,単なる「言い合い」あるいは「揚げ足取り」にしかならないでしょう。TVで観る討論会や,私の経験上でも,こういうことは多いです。

意見の違いをすぐ「正しい/間違っている」とか「いい/わるい」という視点でとらえてしまうのは日本人の悪い癖です。そういう癖も,対話での教育が不足していることを物語っているように思います。まさに悪循環!まずは教師がそのしくみから脱却してほしい!!

学級崩壊について

小学校で授業が成り立たないという状態が,学校崩壊という言葉で語られるようになってしばらくたちます。朝日新聞では,『学校 第2部』というシリーズで崩壊へ立ち向かうある学校の試みについて紹介していますし,昨日(98/12/08)の朝刊では見開き全面で学校崩壊についての読者の意見を紹介していました。
 私もこのことについて,私なりにどう理解しようかと少しずつ考えていました。まだ,まとまったとは言えませんが,ここに書きながら頭の中を整理してみたいと思います。私の思考の出発点は「子供は大人の鏡」ということです。子供が最近急激に変わったということは,大人が急激に変わったことを暗示しています。大人はどう変わってしまったのでしょうか?

私がその原因の一つだと思う大人の変化は,大人の生活に「ゆとり(余裕)」がなくなったことです。子どもたちが接する大人といえば,主に親・教師です。

はじめは教師のゆとりのなさについて。私はそんなに長いこと教員をしているわけではないので,確かなことは分かりません。しかし,周りの先生方は「昔はもっと生徒のことについて職員室で話したり,教材の準備をゆっくりする時間があった」と口をそろえます。実際のところ,現在の職員室は「ゆとり」とは無縁のところのようです。常に追い立てられている感じがします。
 教師のゆとりを奪っているものは,校務に関わる出張や得るものの少ない研修,密度の低い長時間の会議,授業と関係のない打ち合わせの数々…。とにかく生徒を帰した後の2時間を,すべて授業の準備や生徒のことを考える時間に当てられる日はほとんどないというのが現状です。養護学校ですらこうです。高校や中学の場合,これに部活の指導が加わります(しかも土日まで)。こんな毎日では,生徒と向かい合う時間なんかとれっこないです。もちろん,それを埋め合わせるために私的な時間をさいて教師たちはがんばっているわけですが,そういう個人の犠牲を必ず必要とするシステムは不健全です。がんばっている先生のうちの何人かは疲れ果てて学校を去ったり,自殺したりしてしまうわけです。そうならなくても,教師の家族(配偶者・子ども)にしわ寄せがいくことは当然です。とにかく,現在の学校のありようは,教師と生徒を遠ざける方向性になっているのです。

教師の問題で,もう一つ触れておきたいのは「ベテランの教師のクラスが荒れる」ということについてです。自分の指導のスタイルが確立している「立派な」先生ほど,学級を崩壊させてしまうらしいですね。私は,これは当たり前なことだと思います。自分の指導のスタイルが確立しているということは,「今」目の前にいる子どものことをまったく見ていない(見ようとしていない)ということだからです。自分のやり方とゴールが先にあって,それが毎年変わらないのですから。「今まではこのやり方で子どもたちを厳しく育ててきた」などという自負をもっている先生は,指導の名の下に子どもを自分の理想に当てはめようとしているだけだと私は言い切っちゃいます。
 そういう先生の指導は,子どもから信頼を得ることが出きるでしょうか。子どもたちは,先生の理想を(しかもその理想は,大人の実態をはるかに越える高い理想だったりする)押しつけられて,その先生が「自分のことを分かってくれている」,「自分を見てくれている」とは思えないでしょうね。常に先生から何か批判されないか,注意深く振る舞うようにはなるでしょうが(一見,指導がうまくいっているように見える),心と心は決してつながらない。
 そういう指導でも,かつてはうまくいっていたじゃないかと言われるかもしれません。確かに,表面上はうまくいっていましたね。でも,本質は同じだったのではないでしょうか。それでも子どもたちが切れなかったのは,その教師を頼りにしなくても,ほかに頼りになる大人が近くにたくさんいたのでしょうね(他の教師,親,近所の人など)。今は,残念ながら子どもに向き合う「ゆとり」のある大人がほとんどいなくなってしまいました…。

次は親と子ども自身について書いてみます。

ところでこの頃の家族は団らんしているんでしょうか?家族団らんといえば夕食時。一昔前は夕食時には家族がそろってみんなで食卓を囲んでいました。現在,夕食を普通の時間に家族全員で食べる家庭ってどれくらいあるんでしょうね?私にはまだ子どもがいないので実感が伴わないのですが,特に夕食時に父親がいない家庭が増えているんじゃないでしょうか。仕事をしている親が夕食に間に合うように帰って来るには,通勤時間にもよるでしょうが夕方6時頃には退社しなければいけません。でも,世のサラリーマンの方々は,もっと遅くまで仕事をしている人が多いようです。一方,子どものほうもよるに塾に行くことが多くなって,家族団らんに加われない子も少なくないようです。これでは家族団らんどころではなく,家族崩壊ですよね。
 家族が共に過ごす時間がほとんどなくなっている中で,どうやって子どもに向き合うんだろうと思います。子どもがどんな風に成長しているのか,成長過程で何につまづいているのか,そういうことを理解するためには,一緒に暮らしているだけではだめで,子どもとじっくり対話する必要があるのです。大人が子どもと1対1で向き合って,時間をとって対話する。その中で,子どもは親の愛を実感し,安定した心で毎日を過ごすことができると思うのです。

こうやって書いてくると,現代の日本人は大人も子どもも忙しい毎日なんだなあと思います。誰にも「ゆとり」がない。大人−子どもに関わらず,誰かとゆっくり向き合ったり,ゆっくり考え込んだりする暇さえないようです。

そういえば,子どもの頃に数学のある部分で納得できずにそのことばかり考えていた時期がありました。自分なりに頭をフル回転させて考え事をしたのですが,その結果なんと授業の進度からはみ出して遅れてしまったのです。まるで「考えてはいけない」「立ち止まっている暇はない」と言われているようでした。私が子どもの頃よりも,今の子どもはもっとそう感じているのかもしれません。そして今私は,日本人が「自分の頭で考えようとしない人たち」に見えてしょうがないのですが,それもそのように育てられたからに違いありません。

誰かとゆっくり向き合ったり,ゆっくり考え込んだりすることができないということは,子どもと対話したり,子どもの自主的な思考・行動をはぐくむこともできないのです。親も教師も−誰も!−子供ときちんと向き合っていない。そんなとき,子供はどうやって生きることの不安を乗り越えていくのでしょう?誰を頼ればいいのでしょう?
 大人たちに振り向いてもらいたい。そういう気持ちは時に問題行動に結びつきます。しかし,問題行動を起こすと大人たちはその行動のみに目を奪われます。子どもの心の叫びはまったく届かずに,行動だけを押さえ込まれます。心のケアには時間がかかるのです。大人たちにそんな余裕はありません。かすかな期待を抱いて起こしたアクションも徒労に終わり,子どもはますます孤立感を深めてしまいます。
 この悪循環を断ち切りましょうよ。家庭を犠牲にして自分のことばかり(=仕事)に時間を使うことをやめませんか?教師も親も,仕事は8時間。それ以上の仕事は,悪いことですよ!そして余った時間は,家族や友人とゆっくり向き合ったり,いろんな考え事をしたり,そういうことに当てませんか?

学級崩壊について思うこととして書いてきましたが,私の書いたことはむしろ学級崩壊が起こる背景−現代の教育事情−についてという感じですね。学級が崩壊する直接の原因は,もう少し具体的な教師の活動の中に見いださないといけないでしょう。すべての学級が崩壊しているわけではないのですから。
 その件についても,いろいろ考えなければいけませんね。崩壊していない学級が,必ずしもうまく運営されているとも言えない気がします。朝日新聞の子どもの意見の中に,「○○先生は厳しかったから黙っていたけど,△△先生は優しそうだったから暴れた」というようなものがあったと思います。子どもの言う「優しい」と「厳しい」の意味がどんなものか直接聞いてみたいですが,単なる圧制でも崩壊をくい止められる場合もあるのかもしれません。それよりは,子どもが爆発できる場所として認識してもらえるような雰囲気があるほうが,まだ健全なんじゃないでしょうか。
 これ以上は,具体的な事例がないと思考が進んでいきません。学級崩壊の件については,これで筆を置くことにします。

雪虫

先日,初めて雪虫を見ました。白い小さい虫がフワフワ〜と飛んでいて,本当に雪が舞っているようでした。Dreams Come True の曲に「雪虫と踊ろう」と歌われていて,「雪虫」ってどんな虫かなーとずーっと思っていたのですが,生徒をバス停に見送りに行ったときに,私のクラスの生徒が教えてくれました。うれしい!

雪虫について,北海道出身の先生に聞いてみました。北海道では,初雪が降る直前の風のない日に,とてもたくさんの雪虫が舞うのだそうです。子供の頃は,それを見るととてもうれしくてはしゃぎまわったと言っていました。たくさんの雪虫が舞う光景は,とてもきれいでしょうねー。

雪虫について,Mac OS 8.5 の Sherlock で検索して,このサイトを見つけました。【雪虫について
 それによると,雪虫の正体はトドノオオワタムシという昆虫類有吻目アブラムシ科の昆虫なのだそうです。春と夏とで寄生する植物を変えながら樹液を吸って生きていて,晩秋に移動する姿を見て,私たちは雪虫と呼ぶのです。飛んでいる姿は雪の精のようにきれいですが,彼らもはやり生き物だったのですね。

勉強に関する教師の役割

生徒の勉強に関する私たち教師の役割って何だと思います?「勉強させること」でしょうか,それとも「成績を伸ばしてあげること」でしょうか。私はこのどちらでもないと思っています。「勉強する」とか「成績を伸ばす」というのは当事者である生徒がすること。私たち教師の仕事は「勉強したくなる環境づくり」をすることです。

教師が「勉強しなさい」と生徒に言うとしたら,それは教師の負け。たとえて言うなら,推理小説の謎解きの部分から読み始めるようなものです。私たちは生徒が勉強をするという結果を期待していますが,だからといってストレートに結果にアプローチしてもつまらないですよね。生徒だって「勉強しなさい」と言われて,そういう気持ちになるはずがありません(なったらなったでそれは問題です=依存的)。

いかにして「勉強したい」と思わせるか。そこに教師の力量が問われるのです。皆さんはどんなアイディアをお持ちですか?

生徒に「勉強したい」と思わせる方法について,私なりの答えを二つ紹介します。一つは「実社会で大人たちがどんな知識・経験のもとに生活(家庭・地域・職場)しているかを見せること」,二つ目は「学ぶ楽しさを教えること」です。

一つ目の「実社会を見せる」については,たとえば生徒の父兄の職場にみんなで行って,父兄から直接その職場の仕事内容や必要とされる学問について教えてもらうとか,地域の職人さんの工房に出かけていって体験学習をするとか,あるいは家庭で両親や祖父母から家事について学ぶ(漬け物の漬け方,庭の手入れなど…)など,実生活のいろんな場面での体験的な学習をさせるということです。その体験を,学校に戻ってからいろんな科目の学習で補強して,一つのレポートとしてまとめていくのです。このような学習を積み上げていく中で,生徒は自分の将来を具体的に考えることができるし,その将来に向けて,勉強したいことが出てくるはずです。新しい指導要領で実施される「総合的な学習の時間」は,まさにこのためにあるんじゃないでしょうかね。

二つ目の「学ぶ楽しさ」については,上の話と関連するのですが,「大きなテーマのレポートを書かせよう!」ということです。一つ目の授業は各教科でやるのは難しいでしょうが,こちらは可能です。たとえば,私の地学の授業では,「太陽系について」というテーマでレポートを書かせたり,過去の大地震について図書館の新聞(縮刷版やマイクロフィルム)を検索して調べるという班別学習を行ったことがあります。「地震に時間を割きすぎだ」と指導主事から文句を言われましたが,こういう学習をしているときの生徒の参加態度やレポートの出来は,普段の「普通の」授業とは比べものにならないんですよ。自分で調べて「レポート」という作品に仕上げる喜びを知った生徒たちは,上の体験学習のレポート作成も苦にならないでしょう。また,ホームページを持っている学校なら,そうやってまとめたレポートをホームページに掲載して,そこからまた新しい学びを始めることができるでしょう。

私なりに考えている学校教育の改善策を書きました。こうすることによる問題点は,体験重視なので「体系的な学習」になりにくいということと,「生徒によって学習内容が異なってしまう」ということでしょうか。でも,私はこれは問題だとは思っていません。「体系的な学習」は元々とてもつまらないものだし,横並び的にみんなが同じことを学ぶことも,各人の興味の及ばない部分の勉強もしろということなので,やはりつまらない。積極的に「勉強したい」と思わせるためには,「学問体系」と「網羅的学習内容」から離れることが必要だと思います。もっともそれらをゼロにするわけにもいかないので,それらのバランスをもう少し体験重視の方に傾けようよと言いたいのです。

友が丘中学校の体験学習「トライやる・ウィーク」

「勉強したい」と思わせる方法の話の中で地域の中での体験学習について提案しました。昨日(98/11/30)の朝日新聞(きょういく'98)に,神戸の友が丘中学校の体験学習「トライやる・ウィーク」の取り組みが特集されていたので紹介します。なおこの取り組みには兵庫県内のすべての公立中学校が参加しているそうです。

友が丘中学校のトライやる・ウィークは11月16日から21日までの一週間,2年生全員が参加して行われた。そのうち初日が説明会とあいさつ回り,最終日が感想文や礼状書きに当て,実際に地域に出て体験したのは4日間。体験実習の受け入れ先は,児童館,寿司屋,そば屋,喫茶店,銀行,宅急便,旅行店,本屋,ガソリンスタンド,スイミングスクール,歯科医,保育所,洋裁,手芸,パン教室,新聞販売店など58箇所。

授産施設に行った生徒は,「障害者を手助けしたい」と思って行ったのに,作業のスピードが3日たっても全然かなわないほど速くてびっくり!「座っているだけの学校に比べてメチャしんどい。でも,みんな優しいし,楽しい」と語った。また,保護者や受け入れ側の変化についても指摘されていた。アンケートの結果では,保護者の4割と受け入れ先の7割が「子ども(中学生)に対する見方が変わった」と感じた。また,受け入れ先の保育園の園長先生によると「去年の事件以来(友が丘というと,例の中学生の殺人事件に巻き込まれた学校),子育てに不安を感じる保護者も多かったが,これで一変した。近所にやさしいお兄さん,お姉さんがたくさんできたということです」と語った。

子どもたちを地域に返すことで,地域そのものが変わっていくんだということが,この記事を読んで一番の収穫でした。今後,2年生だけじゃなくて全学年での実施になって,さらに事後指導を1日で終わらせるのではなく,レポートを書かせたりして十分時間を割くと,もっといいものになっていくのではないかと思いました。この実践は,まだ「実験」段階ということですが,ぜひ今後も続けていってほしいです。

肯定のメッセージ

人に何かを教えるとき,「あなたのやっていることは正しいよ」というメッセージを伝えることは大事なことです。例えば,英語の"r"の発音を"Read..., Write..., Ride..."などと言いながら練習しているときに,先生に"Good! Your pronunciation is very good!"なんて言ってもらったら,うれしいし自信もつきます。

ところが,私を含めて学校の先生は,あまりそのことを気にかけていないようです。障害が重度で頻繁にツバはきや自傷などの行動を起こす生徒には,禁止のメッセージが始終与えられます。「ダメ!」「違う!」「コラッ!」「○○!」(名前で怒られる)多くの場合,別な場面で「OK!」「あなたは正しいよ」という声がけがなされているということは少ないようです。

重度の生徒の場合,他者とのコミュニケーションの意欲や技術を高めることが重要な課題になることが多いです。それなのに,他から受け取るメッセージが「否定メッセージ」だけでは,コミュニケーションの指導が成り立つわけないですよね。私たちは,そのような場合,その生徒が上手にできることを早く見つけてあげて(あるいは形成してあげて),「OK!」という「肯定メッセージ」をたくさん与えてあげるべきなのです。

でも,このことは重度の生徒だけに言えることではないと思います。障害の軽い生徒にとっても大事なことだし,そもそも私たちのすべての人間関係に欠かせないことだと思うのです。意識的に「肯定メッセージ」を発信しましょう!

地球温暖化とサービスエリア

夏休みにサービスエリアで車中泊したとき,驚いたことが一つあります。それは,同じように車中泊あるいは仮眠している車のほとんどすべてがエンジンをかけっぱなしだったことです。たしかに夏の暑い夜ですからエアコンをつけたくなる気持ちは分かるのですが,CO2を少しでも削減しようとしている一方で,毎晩こうやってアイドリングだけでCO2やNOX,SOXに変っていくガソリンもあるんですね。地球温暖化とか,酸性雨などの言葉(知識)と,今現在暑いという状況は,そういうドライバにとってはまったく違う次元にあるんでしょうね。

学校は母のようであれ

最近,クラスの運営をしながら自分自身に言い聞かせていることがあります。それは「学校は母のようであれ」ということです。母親はよく「海」にたとえられます。子どもを無条件に受け入れ,愛することで子どもに安心感を与えるのが役目です。それに対して,父親はよく「岩」にたとえられます。子どもに越えられない壁と社会の厳しさを教えるのが役目です。そして,私は子どもたちにとって学校も母のようにすべてを受け入れてくれる場所であってほしいと思います。

「学校(先生)は,自分のすべてをありのままに認めて許してくれる。学校(先生)によって,自分は守られている。」そういう気持ちを,子どもたちに持ってもらいたいのです。そういう気持ちを経験するからこそ,子どもたちはきびしい社会に旅立っていけるのだと思います。しかし,現状はどちらかというと父親の役のほうが多いようです。「社会に出たときにこれでは困るから」と,子どもたちは「きびしく」指導されます。子どもの「将来像」を描いて指導をすると言っても,その意味を履き違えるとまったく逆の指導になってしまう危険があるんですね。

寝る前の一杯の水

先日,TV番組で「寝る前の一杯の水」が健康にいいと聞きました。寝ているときは水分が出ていく一方なので,血液中の水分が減りすぎて粘性が高くなるらしいのです。脳の血管の病気は,たいてい明け方に起こると聞いて納得しました。それからは,ベッドサイドに水筒を置いて,寝る前とトイレに起きたときには必ず水を飲むようにしています。朝起きたときも。結構,調子いいように感じます。

火花検査士

昨日(98/07/14),TVで「火花検査士」という職業の方が紹介されていました。特殊鋼に含まれる微量成分を,グラインダーで削ったときに出る火花を見て測定する技術を持った方です。火花をじっと見て「モリブデン3.0%…」などと0.1%オーダーで「分析」しているのを見たときは,ウッソー!と思いました。しかし,モリブデンやタングステン,マンガンなどの火花を単体で見せられると,色や形や最後にはじける様子の違いがはっきり分かります。その映像を見せられてから再び特殊鋼の火花を見ると,私にも「あ,モリブデンが入ってるな」などと分かるようになりました。これなら熟練すれば0.1%オーダーでも言えるようになるのかな。

某大学の岩石学の先生は,偏光顕微鏡で鉱物を見ただけで「チタン3%」とやって,その後に分析した学生を驚かせたようですが,こちらのほうは事前に分析して知っていたのをナイショにしていた,先生のただのいたずらだったようです。(^_^)

Specialな教育的ニーズ

昨日(98/06/27),宮城教育大学を会場にして開かれた「SNE学会」に行ってきました。SNEというのは「Special Needs of Education」の頭文字です。主に通常学級に在籍している児童生徒の中でSpecialな教育的ニーズを持っている子どもに対して,効果的なアプローチができた2つの実践例が紹介されました。

成功の秘訣は,いろいろあるわけですが,もっとも重要なのは「担任が一人で背負い込まないで,特学担任や他の周りの先生と一緒に対処する(チームプレイ)」ということのようでした。また,チームの中にLD,ADHDなどの障害についてよく知っている人がいるということも欠かせません。

逆に言うと,障害の存在や特性を知らずに「みんな一緒」とか「厳しく指導する」とか「今までこういうやりかたでうまくいってきた(私はベテラン)」みたいなことを言う人が担任だったりすると,子どもは追いつめられ,2次障害を引き起こす可能性が高くなるわけです。そういう被害を受けている子どもが,いっぱいいるんですよねー。(sigh...)

ワールドカップサッカー

昨晩(98/06/26)のワールドカップサッカーの日本−ジャマイカ戦は,格下とみられていたジャマイカが2−1で日本を下しました。それについて思ったことを書きます。

地区予選でもそうでしたが,日本チームは相手の力にお付き合いする傾向がありますね。強いチームと対戦するときは強くなり,弱いチームと対戦するときは弱くなるようです。弱いチームの時は弱くなるだけでなく,隙ができて点を入れられ自滅するときも少なくありません。

選手が「結果はどうあれ,いい試合をしよう。(あわよくば勝利をもぎ取ろう)」と思っているときはいい試合ができて,逆に「勝てる」とか「勝たなければならない」という気持ちが先に出てしまうと悪い結果が待っているようです。勝利という「結果」をほしがるあまり,その過程である一つ一つのプレーに集中できなくなっているのだと思います。

確定的な未来などありません。未来とは,今この瞬間の積み重なった結果です。今この瞬間に100%の力を出し切ることが,おのずと結果に結びついていくのです。そういうことを再認識していい勉強になった試合でした。

それにしても,選手の皆さんはいろいろな重圧の中でよく頑張ったと思います。W杯本選初得点,おめでとう!

イクラで窒息!?

3歳以下の乳幼児にイクラを食べさせるのは危険だってご存知でしたか?イクラの大きさが,ちょうど乳幼児の気管支の太さとほぼ同じで,誤って吸い込むと詰まってしまうのだそうです。(朝日新聞日曜版6/21より)

6月。夏を思わせるややじめっとした暑さの中,体育館で救急法の研修を受けました。一番最初に喉に詰まった異物を除去する方法を学びました。肺の中に残っている空気を押し出すように,胸部をグッと押すのがこつのようです。その他,意識のない人にとらせる体位,呼吸がない人への人工呼吸,脈がない人への心臓マッサージ(一人でやるタイプ,二人でやるタイプ)を,人形を使った体験学習で学びました。

私は2年前の研修にも出ましたし,毎年,JRCの宿泊トレーニングでも生徒たちと一緒に学ぶのですが,1年経つと見事に忘れていることが多いです。昨日の救急法は希望者だけでしたが,全員毎年受講する必要があると思いました。

【注意】救急法をこの文を読んだだけで試さないでくださいね。この方法を知らない方は,日赤か消防署で実際に講習を受けることを強くお勧めします。

宮城県沖地震から20年

昨日は宮城県沖地震から20年の日でした。宮城県では県庁をはじめ,いろんなところで防災訓練が行われたようです。20年前のあの日,私は小学6年生で山形県鶴岡市の某小学校のグラウンドで野球の練習をしていました。突然大きな揺れが来て,野球の監督が体育館でバスケットボールをしていた友達に早く逃げるように大声で叫んでいたことを思い出します。

その当時の鶴岡市の先生方は昭和39年の新潟地震を間近に体験した方々で,防災訓練の度に新潟地震で校庭に地割れができて,子どもが挟まれて亡くなってしまったという話を聞かされていました。それで,揺れが激しくなる中で,野球の守備の体勢のまま足下を注視し,グラウンドにひびが入らないかどうかと心配していました。

地学の教員になってからは,地震の学習をする前に必ず周りの先生方に「宮城県沖地震の思い出」を取材しました。ある先生は,修学旅行の引率中だったそうで,生徒の自宅に電話をさせてもまったくつながらず,ニュースで伝わる映像に生徒がパニックになってしまってたいへんだったと話してくれました。また,ある先生はその時小学生で,台所でフルーチェを作っているときに地震が来て,一度逃げてから戻ってみるとフルーチェの中に棚から落ちたいろんなものが入っていたという話を聞かせてくれました。多くの先生の話はとてもリアルで,地震が起きた当時の様子が生々しく伝わってきました。これらの話は地震の授業の一番始めの導入として使わせてもらいましたが,生徒たちもよく知っている先生たちの地震体験に,いつもより身を乗り出して聞いていました。(ホームページの「地学の部屋」に私のやった地震の授業の紹介があるのでぜひ見てください)

規範や指針を失った人々(教師の苦悩)

先日,妻のAldoと一緒に,精神科医の香山リカさんの講演会に行ってきました。とても分かりやすい話と,飾らない人柄が印象的で,私たちはとても好感を持ちました。

話の筋を簡単にまとめます。最近の心の病の特徴は,

  1. トラウマを訴える人々の増加(アダルトチルドレン)
  2. 解離とよばれる心の防衛メカニズムが働いてしまう人の増加(離人症状,記憶喪失,遁走,多重人格)
  3. 衝動的な行動を起こす人の増加(キレる,引きこもり,過食,依存症,万引き,放火,自傷など)
  4. 精神分裂病の病態が軽くなってきたこと

の4つにまとめることができるのだそうです。その4つの特徴から見えてくる現代日本とは(私なりに理解してまとめると),「自由である反面,規範や指針となるものがなくなり,自分という存在の意味や人生の意味を自分でデザインしなければいけなくなった時代」であり,「規範や指針」を失って右往左往している人が,心の病におかされやすいということだそうです。

この「規範」がなくなってしまったということが,実は私たち教師にとっても生きにくい時代になっている原因だなあと思いました。少し前の時代の日本には,例えば「男(女)とはこういうもの」,「大人になったらこうするもの」などという,「日本人としての状態像」みたいなものがある程度の合意を得られていたわけで,私たち教師もそれに向けて子どもたちを育てていけばよかったわけです。

20年前の教科書には,青年期の課題として(1)自己中心性からの解放,(2)男らしさ/女らしさの確立,(3)自己同一性の確立,の3つがあげられていたそうです。ところが,現代はどうかというと,「自由」とか「自分を大事にしよう」というようにどちらかというと自分中心であることが是とされたり,女のような男が社会的に認知されたり,学校を出たからと言って定職につかなくてもよい状態(フリーター)があったりするわけで,昔のような青年期の課題はほとんど意味を持たなくなってきています。

現代日本に一般的に認められる「規範」がなくなりつつある中で,私たち日本人は自分の心の中に自分なりの「規範」をつくって行動しなければいけなくなりました。一人一人違う規範の中で生活しているわけですから,教師だけが昔の「規範」にそった指導を行なっても,親や生徒とずれてしまうのは明らかです(制服や髪の色などの生徒指導や進路指導)。教師の中でも「規範」についての考え方が異なっているので,指導に統一性がなくなります。

現代の教師は,こういう状況の中で何に頼って生徒を導けばいいのか分からずに,右往左往してしまうのです。

彩雲

昨日(98/05/13)の夕方,Aldoと二人できれいな雲を見ました。厚い高層雲のはじっこに太陽の光が当たって白く輝き,青空との境界付近に虹色の帯がかかっていました。しかも,高層雲が3層構造になっているらしく,3つの層の端がすべて虹色に輝いていてとてもきれいでした。「空の色と光の図鑑」で調べたら,そういう雲のことを「彩雲(さいうん)」というのだそうです。古来から天にあらわれためでたいしるしの随一のものと言われているとのこと。何かいいことあるかな?(子どもができるとか…)

※11月に7年間待っていた,赤ちゃんができました。彩雲のおかげ?

ホスピス

宮城県でははじめての開設となる,光ケ丘スペルマン病院のホスピス病棟を見学してきました。新築された病棟は,まだ新しいにおいが立ちこめていました。ナースステーションや廊下には,太陽の光がたくさん降り注ぎます。各部屋にはTVやビデオ,冷蔵庫などが準備され,ベッドにはボランティアの方が作ったキルトのベッドカバーがかかっていました。窓のカーテンは一部屋ごとに色合いが違っています。また,カトリック系の病院らしく,きれいなステンドグラスに彩られた「祈りの部屋」もありました。建物心体が黄色ないしは黄緑を基調とした配色になっていて,とてもやわらかな雰囲気に包まれていました。

今日(98/05/11)から実際に患者さんが入ってきます。人生の最後のひとときを,この暖かい雰囲気に満ちた病棟で過ごすことになります。一人一人の患者さんに,落ち着いた静かなひとときが与えられることを祈りたいと思います。

ホスピス病棟は,今,看護婦さんにたいへん人気があるそうです。一般病棟の比ではないとか。きっと,ホスピスというと,ゆったりした時間の流れの中で患者さんのケアがたくさんできるというイメージがあるからでしょう。そのイメージは,看護婦さんになりたいと思ったときに描く看護の理想の姿なんですね。しかし,現実には「白鳥の泳ぎのようなものだ」と友人のドクターは言っていました。患者さんに接するときは優雅にゆったりとしていながら,ナースステーションの中ではいろんな業務があってとても忙しいのだそうです。それで,思い描いていたイメージと違うと言ってやめていく看護婦さんも少なくないのだそうです。

アルコール依存と共依存

アルコール依存症が,意志薄弱の人の病気だと思っている方はいませんか?そういう考え方は,20年前のものだそうです。つまりもう時代遅れ。今では,アルコール依存症は家族関係の病気であると理解されています。アルコール依存の患者の周囲には必ず,その病気によって被害を被りながらも,同時にその病気の進行に手を貸す人(つまり病気の支え手)が存在します。多くの場合,その支え手は妻です。アルコール依存は夫一人の性格によって引き起こされるものではなく,夫と妻の共同作業の産物なのです。

一方,自分の子どもを虐待する親の話を聞くと「なんて親だ!」と憤慨したくなりますが,そうやって虐待されて育った子どもが親になったときに,やはり自分の子どもを虐待する場合が非常に多いのだそうです。つまり,虐待という行為は親から子に伝わるのです。そうなると,虐待する親を単なる悪者として切り捨てるだけでは,この問題はまったく解決しないということになります。

アルコール依存も虐待も,家庭という場で世代を越えて伝染します。この連鎖を断ち切るためのキーワードは「共依存」です。当事者が「共依存の世界」で暮らしているということを認識し,自分や親の行動を理解することから治療が始まります。

アルコール依存症の治療の過程で,依存症の当事者のまわりに,その依存で被害を受けながらもそれを支援している人の存在が浮かび上がりました。そのような人を「共依存者」と名付けました。
 共依存の人の行動パターンというのが14項目ほどありますので,それを紹介しましょう。結構,自分に当てはまったりしますよ。

#教員に多いなあ,こういうタイプの人…。

いかがでしたか?皆さん,いくつかは思い当たる節があったのではないでしょうか。私もいくつかは当てはまります。日本社会というところは,もともと共依存的な価値観で動いている社会なので,共依存的になるように育てられてしまうという面があります。ですから,それで問題が生じるかどうかは程度の問題ということになります。

霧の朝

霧の朝は,普段目に見えないあるものが見えるんです。それはクモの巣です。クモの糸に小さな水滴がついて,透明だったクモの巣が白く浮き出てしまうのです。(きっとクモは困っているでしょうね)

昨日は市バスの迎え当番だったので,近くの停留所までクモの巣をのぞきながら歩いていきました。空中に張るタイプのクモよりも,地面に直径10cmぐらいの巣を張るタイプのクモが圧倒的に多かったです。草が短く刈られたのり面にたくさんの綿のようなクモの巣が見えて,まるでわた雲が空にたくさん浮かんでいるかのようでした。

親の期待で壊れる子どもたち

こころの科学59「特別企画=依存と虐待」から。東京都精神医学総合研究所の斎藤学氏の文章の中に『子どもたちにとって家族を危険なものにする大きな原因は「親の期待」である』と書いてあります。

子どもに期待しない親はいないんじゃないかと思いますが,共依存の家族の場合,その期待が「押し付け」になってしまうようです。嫌がる子どもを無理やり塾に連れていく,勉強していると喜び,遊んでいると怒る,親の意に沿わないことをすると不機嫌になったり怒ったりする…。このように子どもの気持ちを無視して親の期待を押し付けるんですね。

「期待」というのは,そのような場合「現状の否定」という意味を持ってしまいます。子どもたちは親に気に入られるために,一生懸命自分を否定して親の意に沿う自分に変化しようと努力し,本当の自分を見失っていくのです。このような「親の期待で縛り上げる」という状態を,斎藤氏は「見えない虐待」であると資いていました。なるほどねー。

福祉専門家って…

国民消費生活センターの情報誌「たしかな目」の4月号に,こんな話が載っていました。

歯科医師の金井純代さんが,ベッド上で自力で排泄・洗浄ができるトイレ付きベッドを開発した。自力歩行ができなくなると,普通はおむつをあてがわれる。しかし,誰の手も煩わせずに,好きなときに排泄ができることは,生きていることの重要な要素だと考えたから。ところが売れ行きは芳しくない。理由は二つ。ひとつは高価なこと。もう一つは福祉専門家の批判。トイレに行こうという意志が寝たきりを防ぐのだから,このベッドは寝たきりを助長するというのだ。

この文章を読んで,「専門家」という肩書きってなんだろうと思いました(よくあることですが)。体力・気力が衰えてしんどい気持ちの時に,遠く離れたトイレまで歩いていくことが歩行の動機づけになると本気で思っているんでしょうか。そういう専門家には,ご自身が老人になって足腰が衰えたときに,ぜひそうやって遠いトイレまで頑張って歩いてほしいものです。歩きたいと思わせる場所がトイレでは悲しいですね。私だったら,きれいな花の咲いた庭,楽しいお話ができる談話室など,行きたいと思う場所をたくさん作るのが先だと思います。そういう発想をする「福祉専門家」っていないんでしょうか?

キレやすいのは大人のほう?

昨日(98/04/08)の朝日新聞論壇の「キレやすいのは大人の方だ」(水島広子氏)は,興味深いものでした。水島氏は子どもの問題行動を「コミュニケーション不全」であるとし,自分のストレスを言語的に表現できずに病気や行動で訴えている姿であると考えています。そして,子どもがコミュニケーションを学ぶ場である家庭(親同士,親と子)でのコミュニケーションが成り立っていないことを指摘しているのです。

「学校のことはおまえに任せている」と母親の相談に応じない父親。共働きなのに家事のすべてを母親に押し付ける父親。夫への不満を議論で解決しようとせずに我慢したりイライラするだけの母親。子どもが悩みを打ち明けても「子どもはそんなことを考えなくていい」「心配しないで勉強しろ」と議論を打ち切ったり,「世間はそんなに甘くない」などと価値観を一方的に押し付ける親。

このような水島氏の意見には,私はとても共感します。子どもに限らず大人でさえも,日本人は問題点を言語的に解決する力が弱いように思います。「問題点を言語的に解決する」というのは,議論をしてそこから新しいもの(方向性)を得るということです。日本ではなかなか生産的な議論にお目にかかれないですね。互いの意見を認めあいながら,よりよいものを生み出そうとするのが議論です。でも,自分の立場を正しいと信じ,相手を間違っていると結論づけるのが議論だと思っている人が多いようです。主張を曲げるのは「負け」という感情を持っているんですよね。そのような人とは,いくら議論してもいい結果は得られません。時間の無駄,徒労…。ホント嫌になっちゃいます。

大人同士の議論でもいやになるくらいだから,子どもはたいへんだなって思います。意味のあるコミュニケーションをできないのに,権力だけを振りかざす大人。そのなかには教師と呼ばれる人たちもたくさんはいっているんですよね。家庭に加えて学校も「コミュニケーション不全」の場なのかもしれません。そうしたら,子どもは八方ふさがりですね。

ドリカムのライブ!

Dreams Come True の LIVE! D.C.T 1998 SING OR DIE に行ってきました。あこがれの吉田美和さんの歌に聴き惚れ,姿にくぎ付けの2時間でした。(*^_^*) うう,感動の(;_;)。

それほど広くないホールでのコンサートで,ステージは機材がやっと載るくらいの広さ。DCTのメンバーが,すぐそこにいるというかんじでまさに"LIVE!"でした。出だしはアフリカっぽい衣装とお面で登場して「よろこびのうた」。ケロケロでは,会場から5人の人が選ばれてステージで一緒に踊ったりしました。帰りがけに吉田美和さんに握手してもらっていてうらやましかった。NEW ALBUM のSING OR DIE の曲が中心でしたが,昔の曲も数曲入れてくれました。アンコールの時は,拍手とともに「サンキュ.」の大合唱でした。会場のみんなの一体感もよかったですね。

DCTはデビュー9周年を迎えたばかりですが,私とAldoも出会ってから9年目なんです。その9年,ずっとDTCの曲とともに歩んできましたから,アンコールの最後の「未来予想図II」のときは,その9年の歩みが頭の中によぎりました。会場のみんなも泣いている人が結構いて,みなそれぞれ想いをもって聴きに来ているんだなあと思いました。ありがとね!DCT!

三つの「宮城方式」

宮城県では今年度から学校において「医療的ケア」を必要とされる生徒のために訪問看護婦さんを派遣してもらえるようになりました。この方法は「宮城方式」と呼ばれて,先日の朝日新聞でも写真入りで紹介されました。教員に医療的ケアの負担を与えないこの方式は,現状では問題点もあるけれど,宮城県が全国に誇れるやり方ではないかと思っています。

昨日の新聞を読んでいたら,もうひとつの「宮城方式」があることを知りました。こちらは車イスダンスの「宮城方式」です。この方式の特徴は車イスの人を含めて3人で踊ること。車イスの人,パートナー,そして車イスの後ろにつくサポーターの3人です。サポーターの人もきちんとステップを踏んで一緒に踊るんだそうです。サポーターがつくことで,障害が重くて上半身が動かない人でも踊れるようになりました。発想のきっかけは,七夕パレードのでこぼこ道で踊るための工夫だったとか。

こういう発想が,私たちの住んでいる宮城県で生まれて育っていっているというのは,とてもうれしいことです。いまウチの学校でやっている研究も「宮城方式」として全国に影響を与えられるようになるといいなあ…。

身近な構造化

今朝は暖かい朝です。寒暖計の針は5℃を越えています。今日からもう3月ですもんね!さあ,春がやってきたぞ!

重い障害を持つ自閉症児者に,生活や学習の場面の意味やそのなかで自分がするべきことを分かりやすく提示する工夫を構造化といいます。例えば,「このイスに座ったときは勉強する」というふうに場所と仕事内容を結びつけるのが物理的構造化。絵カードや写真などを用いてスケジュールの順番を提示するのが時間の構造化。それからワークシステムやタスクオーガニゼーションでは,仕事の内容や順番を分かりやすく提示します。

構造化のアイディアというのは,いろんなところに転がっているものですね。ちょっと考えてみると,日常の中で自分でそれと気付かずに構造化している(されている)こともあります。長期の旅行に行くとき,金魚の餌はある人に頼むことにしています。餌は1回分ごとにフィルムケースに入れておきます。これはタスクオーガニゼーション。パソコンのデスクトップにTo Do リストを作って,1日の仕事を視覚的に確認するのは時間の構造化。生徒の実態を書く用紙に,あらかじめ「身辺処理」とか「言語能力」のように項目別に欄が用意してあるのも,タスクオーガニゼーションかな。もっと考えれば,いろいろでてきそうです。構造化というのは,障害を持つ人だけのものではないんですね。

中学生のナイフ刺殺事件

黒磯の中学生によるナイフ刺殺事件について。殺人を犯した生徒が教護院送致になったのを受けて,昨日の朝日新聞朝刊にはそれに関する記事がいろいろ出ていました。事件直後に比べると,全般的に的を射た意見が多いように思います。その中で印象に残ったのを3つ紹介します。

ひとつめは論壇。大学生の飯田雅さんの投稿の中に書かれている「キレる」の定義です。『「キレた」後は言動に関しての一切の責任は自分自身にないのである。規律,規範,倫理,信念…。そういうものの中で生き,つながっていた自分が何かの拍子でそこから外れる。その拍子というのが「キレる」ことである。』この説明は当を得たものだと思いました。今まで「キレる」ことを,これほど明快に説明した文章を読んだことはありません。

次は,東京大学教授(学校教育学)の佐藤学氏が紹介しているアメリカのやり方。あちらでも,少年の凶悪犯罪が後を絶たないのだそうですが,そんな中で暴力から身を守るための教育プログラムが,多くの学校で正規の授業として行われているのだそうです。それは例えば,「仲間と協力して抗争を調停する学習」や「暴力による解決を思考による解決に置き換える学習」や「葛藤や対立を感情的に処理し,知的に解決する道筋を探求する学習」など。さすがアメリカ。そう言えば,過去を振り返ると学校で「生きる術」を拠わったことはないなあ…。

最後に天声人語から。『クリントン大統領は今年の一般教書演説で「小学校低学年のクラスを現在の平均22人から18人にしたい」と提案した。日本では「35人学級」の声さえ,行政改革の名のもとにかき消されがちだ。』現在,養護学校でクラスを担任していますが,一人ひとりのことにちゃんと気を配ろうと思ったら,10人では多すぎます。7人が限度。

さて,日本は,あるいは日本の教育界はこの事件の教訓として,「キレる」中学生の出現に驚き,所持品検査をしてお茶を濁すというシナリオしか描けないのでしょうか?このの先,何をどう変えるかというビジョンはできるのでしょうか?教育をないがしろにする社会は,やがて滅びさるしかないのだと思うのですけれど…。

土日のクラブ活動反対!

昨日(98/02/15)の朝日新聞朝刊に「中学校で土日のクラブ活動の引率をボランティアでやるのは当然」という保護者の意見が載っていました。ビックリです。読み間違えたかと思って,何度も読み返してしまいました。「土日は休みの日なんだから,お金を払うことはない。好きで指導しているんでしょ。」という考えなんでしょうか。それとも「学校の教師は土日と言えども,ただ働きするのが当然」と言いたいのかな。う〜ん,わかんない。

ちなみに私は,土日のクラブ活動反対派です。理由は,土日ぐらい学校から離れていたいからです。そして,生徒たちにも学校から離れた世界を経験してほしいからです。本当にクラブ活動に教育的意義を認めるなら,「対外試合は平日にやれ」です。学校を公欠にしてやるべきです。それが学校としての活動なら。

誤解にもとづいた共感

AさんとBさんが,同じ語句を使って共感しあって話し合っているのに,それぞれが頭の中に描いているイメージは全然違う。そんなことになる言葉というのがありそうです。例えば「普通」。「普通の子が突然暴れだす」と言ったときの「普通」というのは,具体的にはどういう行動をしている人のことを言っているんでしょう?あるいはその子を「普通」だと判断した基準は何でしょう?それをお互いに言葉にしてみると,案外,全然違うことをしゃべっていたなんてことになりそうです。こういう例は,他にもたくさんありそうですね。ちょっと考えてみよう。

雪と砂

今年の仙台は,雪が多いです。さらさらした雪が降る寒い朝,車に積もった雪を払っていると,雪がキラキラと輝きます。目を近づけるときれいな六角板状の結晶。生徒に「雪の形ってどうかな?よく見てごらん」と問いかけたら,「星の形のようだわ」という答えが返ってきて感心しました。(98/01/28 5:23)

昨日,学校の職員室で,実体顕微鏡を机に乗せてハワイの砂を見ていました。【理科の部屋】のメンバーから分けていただいた,オリビン(カンラン石)の砂です。まわりの先生が「何見てるの?」と寄ってきたので,「ペリドットという緑色の宝石の原石を見ているんです」と説明してみんなに見てもらいました。「普通の砂に見える」「これを集めて固めたら売れるの?」「白いね」(←そっちは違うほうです!緑の透明なやつですよ)「別に緑色には見えないよ」(←証明のせいでやや黄色っぽく見えた)などなど感想はいろいろ。でも,結晶の形が綺麗だとか黒い包有物が入っているという感想はなかったです。はやり,見るところが違うんだなあと思いました。今日は,うちのクラスの生徒たちに見せてみます。どういう反応が返ってくるかな。(98/01/29 5:32)

「わたしメッセージ」

先日,ある講演会の資料の中に「わたしメッセージ」と「あなたメッセージ」というのがあって,なるほどそれはそうだと思ったのでごく簡単に紹介します。(実際の講演を聴けなかったので曲解しているかも)

誰かに物を言うときに,相手の行動を直接制御しようとする言い方をする。例えば,「その足,引っ込めなさい」…これは「あなたメッセージ」。逆に,自分の気持ちとして表現する「その足に引っ掛かって転びそうで怖い」…これが「わたしメッセージ」。そして,「あなたメッセージ」の乱発は,相手をかたくなにさせるだけだと言うのです。本当に,その通りですね。いい言葉を知りました。