お茶碗プロジェクト会場を巡る
ひまわりおじさんの話をきく
震災前から「迷路のおじさん」ということでいろんな学校を訪ねて子どもたちを楽しませるボランティアをしていた。震災直後には迷路の板の代わりに水タンクを積み,給水のボランティアをした。給水車がまわるようになってからは,トラックの上にお風呂をつくって,お風呂のボランティアをはじめた(自衛隊より早かった)。壁がわりにつかった迷路の板にひまわりの絵があって,「ひまわり温泉」の出前と呼ばれるようになった。「ひまわり温泉」のお客さんは4日間で1000人を越えた。いくつかの学校を転々としながら,ある小学校の校庭では露天風呂もつくった。「14日ぶりにはいったんや!」と言いながらお風呂に入る子どもたちの笑顔。これを見るとやめられない。
迷路の板を利用して小さなスペースをつくり「ひまわりサロン」という名前でコーヒーやお茶の接待をしていた。神戸の住民の愚痴を聞きながらコーヒーを出していた。そのとき,震災前からボランティアでひまわりの花いっぱい運動にたずさわっていて,ひまわりの種を山のように持っているのを思い出した。それを使ってがれきの街にひまわりの花を咲かせようと思った。ドラム缶3杯半ぐらいまいた。仮設住宅や道路の中央分離帯など,いろんな場所でひまわりが咲くようになった。
次に「ジャンボひまわりコンテスト」をはじめた。ひまわりがどこまで背が伸びるかのコンテストで,大きく育ったひまわりを写真に撮って送ってもらう。それが今もまだ続いて12回にもなった。何年かかけて4〜5mぐらい育つ種をつくってから全国に配った。2001年に神戸の復興の記念事業をするとき,市民投票でひまわりが感謝の花(シンボルフラワー)に選ばれた。
その後も「ひまわりおじさん」としていろんなところで活動していた。そんなときに,中越地震が起こった。いてもたってもいられなくなり,神戸でのボランティアの経験を生かしたいと思って現地入りした。そのとき,地震が来たら茶碗が割れる…そうだ,茶碗をもっていったら喜ばれるだろうと思った。
そこで,マスコミに「茶碗を中越に持っていくために集めています」という記事をあちこちに書いてもらった。そうしたら,面白いように集まった。人と防災未来センターや学校を集積場所に借りて,1248箱。自分でトラックを運転して6往復し,中越に運んだ。
被災地ではボーイスカウトが配布を手伝ってくれた。「奪い合えば足りない,譲り合えば余る」そういうことを書いて,配布した。そうしたら山古志村の長島村長がやってきて「あなたですか,うちの住民にたくさん茶碗を配って…」と頭を下げられた。それからずっとお付き合いをしている。今回の地震で届いた茶碗のなかにも,長島さんから届いた物がある。
中越でもひまわりの種を植えた。長岡の国営越後丘陵公園に地元の中学生と植えて,手入れをしたひまわりが咲いた。仮設にも咲いた。被災地に行って,いきなり「ひまわり植えましょう」とは言わない。いろんなことをやりながら,おじさんは「ひまわりおじさんて言うけど,ひょっとしてポケットの中にひまわりの種がはいっているの?」と聞かれたら「分かった?」と言って出す。それだったら仮設に植えようよという話になる。そうすると,おじさんが植えなくてもどんどん植えられていく。
そうしたら今度は中越沖地震が起こった。中越地震のときに茶碗を神戸から6回運んだのがしんどかったので,このときは現地に集積場所をつくろうと思った。柏崎総合高校が協力してくれた。体育館に1200箱あつまって,生徒たちが仕分け作業をしてくれた。このボランティア活動で,柏崎総合高校が表彰された。
その経験で,学校さがしをここでしようと思って,神戸のコーヒー屋さんですと言ってコーヒーを提供しながら,さりげなくいろんな高校を当たってみた。しかし,なかなか難しかった。そこに,自然学校の佐々木さんが通りかかった。とにかく集積場所さえもうけてもらえれば何とかするからと頼んだ。「荒井さん,うちでなんとかしましょう」と言ってくれた。佐々木さん,ありがとう!
関連リンク
私の阪神大震災ボランティア体験 「瓦礫の町にひまわりを」(荒井勣)
震災を語る(荒井勣)
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