■ 研 修 会: | 第15回全国都道府県PTA連合会代表者連絡協議会 |
■ 日 時: | 2014年11月30日(日) 9:20〜11:50 |
■ 内 容: | 防災教育の日常化 |
■ 講 師: | 山口裕之(宮城県立光明支援学校・教諭) |
■配付資料(ハンドアウト)(クリックでダウンロード:PDF)
皆さんこんにちは。宮城県立光明支援学校の山口です。
昨日から参加していますが,この和気あいあいとした雰囲気,失敗も気にしない大らかさ,とても居心地がいいです。私は元々は高校の教員ですが,特別支援の世界に入って楽しいと感じることのひとつが,苦楽をともにできる保護者の存在だったと昨日思い出しました。
20年前に高校から特別支援学校に転勤するときに「今どき、障害児の母親物語」という本を読みました。養護学校への転勤は自分が希望したものでしたが,実際に転勤することが決まると少し不安になりました。そんなときにこの本に出会ってお母さんたちが障害児の子育てを前向きに楽しんでいる様子を読み,こういうお母さんたちとならやっていけそうと思ったのです。そして実際に転勤してみると,子どもを中心にして親と教員が同じ目線で苦楽をともにできる,仲間だと感じながら仕事ができる。そういうことが楽しくてこの世界に居続けるんだということを,昨日久しぶりに思い出しました。
震災から3年半が経って報道も少なくなり,記憶も薄れかけているところです。とは言うものの,震災というのは決して過去のものではなく,これから首都直下地震や南海トラフの巨大地震などが起こると言われていますし,つい先日長野で起こったようなマグニチュード7前後の地震は日本のどこでいつ起きてもおかしくありません。また,地震以外にも,8月には広島県の集中豪雨と土砂災害,9月には御嶽山噴火などがありましたし,私の地元宮城県では蔵王火山もなにやらモゾモゾと活動しはじめたりして,「災害は忘れた頃にやってくる」ではなく,災害は忘れるまもなくやってくるというのが昨今の現状です。これからお話することが,皆さんのお役に少しでも立てばうれしいと思っています。
さて,今日は「防災教育の日常化」というテーマをいただきました。スクリーンに出ている絵は,東日本大震災の後,防災教育というのは実はこういうことだったんだと私なりに理解したことを図に表したもので,「防災教育の氷山モデル」と呼んでいます。
防災というのは、学校教育の中でどちらかというと日陰の分野です。本来いちばん大事にされるべきものですが、学力向上とかキャリア教育といった華々しい分野にどうしても負けてしまいます。東日本大震災が起こり,今でこそ防災に注目が集まっていますが、将来災害の記憶が薄れて防災教育が再び日陰になる日が来るだろうと思っています。そういう日が来ても、どんな学校でも無理なくできる防災教育を作っていきたいというのが,東日本大震災を体験した私の考えです。そうじゃないとこれから100年続かないんじゃないかと思うんですね。そのためのキーワードが防災教育の日常化であり,それを図示したものがこの氷山モデルです。今日の話はすべてこの氷山モデルにつながっていきますので、これから話の流れの中で少しずつ説明していきます。
まずその前に,簡単に自己紹介を。特別支援学校の教員として15年目を迎えましたが、もともとは高校で地学の教員をしていました。地学の中には地震や気象,火山の分野があり,その中で自然災害についても教えていました。そういう経歴があったので,東日本大震災の後,防災主任となって今年で3年目を迎えています。
私は理系の人間なのであまりスピリチュアルな話は信じないんですけども、実は東日本大震災のときに不思議な体験をしました。震災の半年ぐらい前に2回立て続けに津波の夢をみたのです。津波の夢は生まれて初めてでその時を意味がわからなかったんですが,東日本大震災が起こって,このことだったんだと思いました。
うちの先祖をさかのぼると,母方の曾祖父は岩手県の田老に住んでいました。震災の時に巨大な防潮堤が話題になったあの宮古市田老です。明治29年,まだ防潮堤がなかった田老を明治三陸津波が襲いまして,私の曽祖父も津波に飲まれました。このとき親族が5人津波にさらわれましたが,その中で曽祖父1人だけが神社の木に引っかかって津波の中から生きて帰ってきました。
曾祖父がこの体験をしたのは結婚する前です。もし神社の木に引っかからなかったら,私まで命がつながることはありませんでした。そうしたら今ここには誰が立っていたんでしょうか?