トップページへのリンク
 中学生・高校生による全国防災ミーティング
 パネルディスカッションより(2/5)

表紙

歴史の視点

歴史の視点

次は歴史をひもといてみます。小さな人間が,大きな自然の中でどう生き抜いてきたか。

日本人は昔から自然災害と共存して暮らしてきて,その中で「災害を受け流す智恵」をはぐくんできました。「受け流す」という発想は日本には昔からあって,例えば柔道では「柔よく剛を制す」といいますよね。相手の力を利用したり,うまく避けることによって,弱いものが強いものに勝てるということです。

災害を受け流す智恵

災害を受け流す智恵

この地図は岩手県宮古市の田老です。田老には上から見るとXの字に見える巨大な防潮堤があって,万里の長城とも言われていました。田老地区は,明治三陸地震と昭和三陸地震の津波で,2回壊滅状態になっています。昭和三陸地震の後,これ以上被害がないようにと防潮堤をつくりました。

このX字のような防潮堤は3回の工事で完成しているのですが,赤の線で示したところが,最初の工事で作ったものです。田老の町がこの部分。その東側を流れる長内川(水色の線)に沿うように伸びています。津波は青い線のように南からやってくるのですが。それを正面から受け止めずに,長内川とその東側の低地に誘導するような発想で作ってあるんです。これが「受け流す」ということです。

ところが,高度経済成長期に2回目の工事を行って,緑色の防潮堤を付け足しました。これは,1回目につくった防潮堤の外側に家を建てる人が増えてきて,それを守るためでした。この防潮堤は津波を正面から受け止めるようになっていますね。今回の大津波で,この緑の防潮堤は完全に破壊されて,田老はまたも大きな被害を出しました。

災害を「受け流す」という智恵が,いつの頃からか,災害を「押さえ込む」という発想に変わっていきます。

小さな成功で防災意識が低下

赤の防潮堤が完成して2年後,チリ地震津波が起こります。三陸沿岸で大きな被害が出るなか,田老では立派な防潮堤に守られて被害はありませんでした。

こういう「災害を押さえ込んだ」という小さな成功経験が,だんだん防災意識を低下させます。

災害を伝える智恵

災害を伝える智恵

次は伝える智恵です。昔の人も,今の私たちと同じように震災の体験を後生に伝えようと思っていました。

例えば石碑。岩手県宮古市の姉吉地区にある有名な石碑です。「ここより下に家を建てるな」と書いてある。とても分かりやすい教えですよね。姉吉地区は明治と昭和の2回の津波で生存者が2名,4名とほぼ全滅。この石碑は昭和三陸津波の後に作られたそうです。この地区の人たちは教えをしっかり守って,今も高台に暮らしています。3・11でも被害はありませんでした。

もう一つは神社。この写真は,南三陸町の戸倉小学校の子どもたちが命からがら逃げ込んだ,高台にある神社です。手前の人が立っているところが本来の避難場所でしたが,ここもけっこう高いのですが,今回はここも津波に飲まれて,子どもたちはさらに上の神社まで駆け上がって一夜をあかしました。この周辺では神社だけが津波で水没しませんでした。この神社の他にも,周りの家は津波にやられているのに神社だけが助かっているという場所がいくつもありました。

それで,確信はないのですが,おそらく神社の建つ場所には意味があるんだと感じました。高台に神社をつくって,例えば年に一度でもそこでお祭りをすることにしたら,地域の人は年に一度必ず避難路を通るでしょ。それに石段も作られるから,お年寄りでも登りやすい。屋根もある。これも伝える智恵,あるいは子孫を災害から守る智恵じゃないでしょうか。

それから,家訓。これは実はうちの家訓です。わが家の。うちの家系をたどると,実は田老の人間なのです。明治三陸津波では4人が津波で亡くなっています。津波に飲まれたのは5人で,そのうち一人だけが神社の木に引っかかって助かりました。それが私のひいおじいさん。まだ結婚する前です。もしこのとき,ひいおじいさんが木に引っかからなかったら,私は生まれていないのです。

うちの先祖の歴史をちゃんと教えてもらったのは,実は震災後です。世代を超えて伝えていくというのは難しいことですね。でも,姉吉の石碑のような成功例もあるので,不可能ではありません。


【←前へ】 【1】 【2】 【3】 【4】 【5】 【次へ→】