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kuniの研修日記(番外編3)
徳山郁夫教授インタビュー(その3)

7月16日
徳山郁夫教授インタビュー
(千葉大学教育学部スポーツ科学専攻)

研究室で,プロジェクトアドベンチャーについて雑談の中で…

 IB(アイスブレーキング)とDI(ディインヒビタイザー)はどう違うか?文人的に言えば,IBは「防御を解くアクティビティ」と位置づけできないか?例えば,初対面に人には「あいさつ」をすることすら防御があろう。その「挨拶」も場面によって違う。「初めて」「いつも」「部活の中で」など。すなわち,このような分類をすることはできないか?

IB:外部から中に入れる準備をすること
DI:その中のメンバーに見せていくこと

 徳山先生から見て,KATのすばらしいところはこのような点だそうだ。KATは常に「社会的責任」のあとに「自己責任」を追わせる流れを唱えている。その流れがすばらしいのだそうだ。すなわち,

IB:「日常」———「非日常」
DI:「合理」———「非合理」

自分がいる合理,臨床的合理を越えるのがDIだと。そこに「物語」が出てくる。言い換えると,

DI:「自分が考えている自分を越える」

kuniの感想

 このようなことについて,徳山先生と論じ合ったあと,徳山先生に次のような助言をいただいた。「わかりそうなところを敢えてわからないという視点からやっていかないと,本当にわかったことにはならない。自分の言葉で語れるようになってはじめて,PAというものを伝えられるのだ。例えば,FVC,CBCなどを言葉で理解しただけになってはいないか?」
 「ウーン」,ズバリをつかれた感じがしました。言葉で理解してしまっているがために,自分の体験として伝えられないし,「FVってなに?」と聞かれたときに,答えに窮してしまう経験があったからです。

体験学習特論(現職教員大学院生へ)

 「大学院とは自分の意識を持って情報を得る場である。講義形式はいかがなものかと思う。早く,大学,高校でもこのスタイルを取れるような教育現場になってほしい。」

1.「臨床」というと

正常・健常←→異常

 「臨床」のイメージとして,「異常」を扱う場としていないか?例えば,「教育臨床」というと,「不登校」を扱う,といった傾向はないか?中村雄二郎は,著書「臨床の知とは何か」でそうはとらえていない。「正常・健常」の「常」とは,「その場に」ということだ。まさに,PAのBeing,Be hereではないか。

 本来,「スクールカウンセラー」という位置づけも,異常な子ではなく,健常な子を扱うのがベースであってほしい。アメリカでは,集中力を高めるためにカウンセラーが活躍している。プロの選手にも個別のカウンセラーがついて,モチベーションの高め方などについて,大きな力となっている。 「マイナスを0(ゼロ)にするのではなく,0(ゼロ)をプラスにすることである」

私と他者について

他者の意味

1)尺度

 徳山先生は遊ぶときに「良い」「悪い」はできるだけ言わないようにしている。それは,本当にそうなのか,わからないことだから。自分にはできないことがわかると,「やらない」になってしまう。すなわち,「尺度」とは「多様性を認めること」ではないだろうか。

2)視座

 視点が一つではなくなり,あらゆる点において「広がり」が出てくる。

 「うまくやっていこうよ」という社会の中で,「学校と社会のつながりは何であろうか?」それは「社会の歯車の一つにする」という捉え方はないだろうか?それで「自分は役に立っている」という実感は持つことができるだろうか?

 アメリカでは,学校で「自分の市を花でいっぱいにしよう」というプロジェクトがある。すなわち,社会に「自分は役に立っている」と実感できる場所がある。しかし日本の学校は「教室—教室—教室—入試」で完結してはいないか?「学校」というのは本来,「臨床の場から社会へ」とつながるものでなければならないのではないか。

 バスケットを例にあげよう。シュートがどれくらいはいるか?と聞かれ,計算はできるだろうか?「計算はできないけれど,シュートは入る」というのが臨床である。「計算ができたから,わかったと思いこんでしまうのが,一番危険なことである」

 また,時間の流れについても,時代が変わってきている。昔,バスケットシューズやスパイクを買うのに,1年,2年と弁当を削ってやっと買ったものだ。そのときの喜びを自分の感情にフラッシュバックさせると,ものすごくうれしかった。しかし,今,カードで簡単に買えてしまう。目標がかなうまでの時間が短い。

 時間の流れで「ゆったりしたあとの満足」か,「満足が短くかなう」か?ゆったりとした時間を過ごすと言うことも大事ではないのか?そのような中で「自分の命の有限性」などを考えるのも「臨床」なのではないか?

2.物語

 物事を論理的に語るとしたら,サイエンス(科学)にはかなわない。

 「ねえ,あのおばさん太ってるよね」これは自閉症やアスペルガー症候群の子どもが口にした言葉である。彼らは「こう言ったら相手がどう思うか」を考えられないのだ。物語を通して,「こういうことがあったら,何が返ってくるか」ということを体験的に身につけられる。時に論理的によりも,物語的にの方が何かを伝える力が強くなるときがある。それは前出の「非合理性」からくるものである。物語がその効果を求めるものは,「非合理性」である。

 例えば物語の例として,オリンピックの原田の映像は,物語を通して人々に与える「死と再生」についてである。今も,たくさんの伝記や「プロジェクトX」などが,物語の中で非合理性をあらわす中で,煌々と光り輝いている。

「死と再生」について

 「死んでしまう」ことは,昨日までやっていたことが今日やってももうできない,変えなければならない,ということである。しかし,そこから踏み出さなかったら,壁は高くなるばかりだともわかっている状況である。そこでどんな行動をとるか?その壁を乗り越えることが,「物語」としての「非合理」にあらわされる。

そこから「再生」するには?

 壁を薄く低くして,一歩踏み出すことである。再生しないと,壁が高くなってしまってますます踏み出せなくなってしまう。その葛藤の中を描いている。この壁が,「Cゾーン」ということもできるのではないか?

帰りの電車の中で

「kuni,現場に戻ってもがんばってね。部活動がモチベーション的にも一番いいでしょう,臨床の場として…。VTRの編集や本の抜粋など,自分がいいと思ったものを伝えればいいと思うよ。教科を通して「じぶん」を伝えるのがあってもいいと思うよ。今のままで,生徒の将来のためになっているかを,もう一度見直して授業などに向かうように。」

このようなお話しをいただきました。

kuni


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