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kuniの研修日記(番外編2)
徳山郁夫教授インタビュー(その2)

7月9日
徳山郁夫教授インタビュー
(千葉大学教育学部スポーツ科学専攻)

 PAについても造詣が深く,KATとの強い信頼関係を築いておられる徳山先生から,今回もすばらしいお話しをお聞きすることができたので,紹介します。

 まず,推薦図書(洋書)
Processing the Experience
「PAは冒険をすることではなく,冒険する気持ちにさせること」であろう。
うーん,なるほど…。

 今回のキーワードは「死と再生」。オリンピックでのダン・ジャンセンや原田雅彦の例を引用して…。

PAのアクティビティの分類について

IB(アイスブレーキング) 楽しい,コミュニケーション,一体感
COM(コミュニケーション) 傾聴,自己表現,他社理解,体験の言語化,問題解決,トライアンドエラー,解決時,後の感情
TR(トラスト) 委ねようとするとき:支えてもらうときの感情・思考(自分・他者)
支えようとするとき:支えるときの感情・思考(自分・他者)
リスク,関係性の変化
TR Fall(トラストフォール) 恐怖,葛藤,チャレンジ,成功体験(自・他の感情,相手との関係)
振り返りでは… どうでした? どんな体験でした? どんな感情でした? 何が起きたのですか?というプロセスを重視する。そこから,どんな活動だったか?関係は?何を学んだのか?へと広がっていく。

※注意するのは,

体験学習特論(現職教員大学院生へ)

 PAパンフレットの紹介:奥様のペコちゃんが表紙を飾っている。

1.体験学習について

 今の世の中は,系統主義と体験主義に二分され,現在の方向は系統主義に流れている。それは,系統主義は「学ぶべき知,論理を見ることができるからである。一方,体験主義では「普遍性を欠く」と思われている。この2つのバランスをとることが必要である。幼稚園,小学生は,体験だけに頼っている。しかし,本来は,体験だけでなく普遍性を教えることも必要である。この「教える」ということは別の視点を持たせてやることにつながる。どんな対象にも,体験させるだけではなく,ある程度教えることも必要なのだ。あくまでバランスなのだ。

kuniの意見

僕も,このことを結構気にしており,蔵王高校でも,

  • 1年次は「体験させつつ考え方を教える段階」
  • 2年次は「自分で考えながら活動していく段階」
  • 3年次は「それを他人,後輩などにも示していける段階」
と考えているのですが,そのときにも「バランス」というものをもっと意識していかなければならないと思いました。

2.果たして体験学習では何を体験するのか?その目標設定は?

 現代は「テレビという魔法の箱」,「学校という教え込まれる場」など疑似体験を数多くする世の中になっている。何かの体験を目にすると,その感想までもが自分の中に入ってくる現状になっている。すなわち,自分が本当に体験して,そこでの感情を描くという経験が少なくなってしまっている。

 例えば,ウサギを抱っこしたときに,
言語的知識:ウサギを抱いての感想というと本能的にも,結局ウサギに焦点が当たってしまう
非言語的知識:本能的にウサギではなく,自分の感情に焦点を当てるだろう。

 その他にも,「野外活動」の意義についても話があった。決まった時間,花火・キャンプファイヤーの火,オートキャンプなどを考えてみてほしい野外に何の活動をしに行くのだろう?「まず,時計をはずす」ことからはじめた方がいいのではないのだろうか?野外に「花火やキャンプファイヤー」などの新しいものを持ち込むのが体験になるのか?また,オートキャンプで不自由ない生活をすることがキャンプなのだろうか?太陽の光を感じて起きそして寝て,渓流でせせらぎの音を聞きながらメディテーションなどをすることなどを一つのプログラムとして入れるのが,本当の意味での「野外活動」ではないのか?

 数学の問題を高校終わったら使っているか?その問題にどう答えられるだろうか?「数学はかくし絵である。」すなわち,本当はもっと使えることがたくさんあるということ。例えば,微積は仕事量やデータ,行列はデパートの作りやBASICなどに大いに役立っている。それを見せてくれれば,すなわちどんなものに役立っているのか,を見ることができればもっとモチベーションも高まるはず。

 このような例を紹介しよう。

  1. 竹とナイフを使って「削りなさい」
  2. 「もっと削りなさい」
  3. 「焦がしなさい」
  4. 「もっと焦がしなさい」
  5. 結局失敗…。
これは実は「フィラメント」を作るものだった。しかし「フィラメントを作る」ということは言わなかった。「目標,ゴール」は言っていない。数学に限らず,日本ではこの傾向にはないか?目標を見せての,そのプロセスに関わりかたを支援するやり方が必要である。

3.人間(自分)を体験する

 科学的に,一人ひとりが違った座標軸を持っているととらえることができないだろうか?それはいいじゃないか? 人それぞれが違っていいじゃないか,という考え方。一人ひとりが自分に確信を持てる。この環境が大学などでもっと生かされるべき日本で知識(英語力)を持っている若者が,なぜ世界に出ていけないか(通用しないか)?それは,自分に自信がないから,すなわちそのような環境になってしまっている。

 イリイチはこのように言っている。
「都会に住んでいる人にとって10kmはどこに行っても10km。しかし,原始的な生活をしている人にとって,川に向かっての10kmは短く,砂漠に向かっての10kmは長い。」
すなわち10kmがいろいろな長さになる。歪んだ距離の中にいるということ。

 「よりよい人間」とはどんな人間のことだろうか?それを科学的に言ってしまえば「消毒された無菌の中にいる人間」ということになる。しかし,「邪悪,ねたみ,不安」の中で生きていく上では…?

 徳山先生にとっての「一番怖いこと」は戦争だそうです。その理由は,「殺される」ことでなく,「人を殺してしまう先頭に立っている人間」になっているのが怖いのだそうです。そのような見方があるのか,と視点の転換にあらためて気付きました。
すなわち,よりよい人間とは「ありのままの人間を体験し,そこに見えてきたこと(不安,ねたみなど)をコントロールできる人間」ということはできないだろうか?そのために,「勇気,平和,愛」というのが本当の自分に降りかかってくるのではないだろうか?日本では,このような「勇気,平和,愛」などと言った「感情」を学ぶ題材が少ない。西洋ではそのような題材が数多くある。例えば,キリスト教のスタンスで見ると,映画「エンド・オブ・デイズ」日本では,もともとある言葉の使い方をあまり勉強しない。高校でもそのような体験が必要になってくる。言葉で「愛,勇気」などを語るのではなく,現実にあるコンセプトでそれを語っていけたら…。例えば,シカゴ大学では,日本では中央公論から出されているが「世界の名著」をすべて読むのが学生時代のノルマとなっているそうである。「言葉」の使い方に,立ち返ることも必要であろう。

4.映像リテラシーについて

 徳山先生はよくコマーシャルの一場面や,映画の一場面など,映像を編集して授業に利用する。それは,言葉だけでなく,情緒面に与える影響も含めてプラスであると判断したときに用いるそうだ。

 例えば,チャップリンの「独裁者」は歴史に残る人間像を語る上では貴重なものである。これは「よりよい人間になるために,のインタープリテーション(解釈)」としてぴったりだ。本当に衝撃を受けることができるだろう。しかし,映像を見た,見せただけでは,傷つきや喜びが生まれない。それについて,赤裸々に論じ合うときに「自分」を出すことにより,「体験学習」になっていくのだ。そこまでの映像リテラシーの意義を理解した上で,どんどん映像も使ったアプローチをしていくべきだ。

kuni


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