宮城県発 — 冒険教育・体験型学習

まあこと被災地弾丸エコツアー

 6月11日現在,警察庁がまとめた東日本大震災(余震を含む)の死者は1万5413人。警察に届け出があった行方不明者は8069人。阪神大震災の犠牲者よりも多い人が,未だ発見されずに被災地のどこかで眠っている。また,県別の死者数が最も多い宮城県では9214人が亡くなり,もともとの宮城県の人口235万人と比べると,県民の250人に1人が亡くなったことになる。家族が無事でも親戚をたどると誰かが亡くなっているという県民が多い。

 東日本大震災からちょうど3ヶ月となる6月11日,あべ企画(あべパパ)主催の被災地弾丸エコツアーが行われました。参加したのは,関東からまあこ,たあちゃん,ほんちゃん,宮城からKAIさん,あべパパ,Sphinx,そしてボストンから来た写真家のジェームズの7人です。(加えて夕食会から,いっきゅうさんとhaya)
 もともと昨日は,ボストンから津波の被災地を取材するために訪れたジェームズをあべパパが案内することになっていて,それに便乗する形で実現した企画です。

気仙沼の市街地(車窓見学)

 集合場所の気仙沼駅付近は津波の気配はほとんどありません。ところが,だんだん港の方に車を進めていき,角を曲がったとたんに風景が一変します。1階部分が破壊された建物や土台から引きはがされて移動している建物などが目に入ります。まるで映画のロケセットのような非現実的な印象です。同じ気仙沼の陸前小泉周辺や山元町のように何もなくなっているのではなく,街並みの原形を残しつつ壊れている感じです。

鹿折小学校~鹿折中学校(車窓見学)

 次にあべパパが以前勤務していた鹿折小学校を通過。この小学校は1階が津波で被災し,2階以上で授業をしているとのこと。続いて,鹿折中学校。校庭には長屋風の仮設住宅が建ち並んでいます。仮設住宅にもいろいろあるそうですが,ここの仮設は木を使った,ちょっと見栄えのいい造りになっています。

巨釜・半造(陸中海岸国立公園の名勝地)

 ツアーコンダクターのあべパパが道を間違えたことで,陸中海岸国立公園の名勝地「巨釜・半造」に寄ることができました。これで「おおがま・はんぞう」と読みます。巨釜と書いて以前は「おがま」と呼んでいましたが,今は「おおがま」とふりがながふられていました。
 海岸の大理石地形です。古生代から中生代の石灰岩地帯に隕石が落下し,その熱で石灰岩が大理石に変わりました。ちなみに石灰岩は大昔の生物が堆積してできたものですが,隕石落下の熱によって結晶構造が変わり,化石としては残っていません。(→LinkIconWikipedia
 巨釜のわきに大理石の石柱が立っているのですが,この石柱は「折石(おれいし)」と呼ばれています。明治29年の三陸地震津波の時に先端が2mほど折れてこの名前がついたそうです。今回の東日本大震災の地震と津波では,折れなかったようですね。
 小雨で天気が悪かったのが残念ですが,それでもきれいな陸中海岸を堪能することができました。ちょっと歩きましたが,次の九九鳴き浜に向けての準備体操にはなったでしょうかね。

九九鳴き浜(くくなきはま)

 宮城県内には鳴り砂の砂浜がいくつかあります。その中で有名なのが気仙沼大島の「十八鳴浜(くぐなりはま)」ですが,その大島の対岸にある「九九鳴き浜」も,鳴り砂の砂浜として知られています。昨日は九九鳴き浜でボランティアによる清掃が行われていて,ジェームズの取材のためにそこを訪れました。
 ちょうど大潮の時間で砂浜の大部分が海の底になっていましたが,それでも白いきれいな砂を見ることができました。まあこの持っていたルーペで見てみると,粒のそろったきれいな石英がたくさん見られました。
 海岸には気仙沼市内から流されてきたと思われる,燃えてすすけた木材や,漁師さんが魚を入れるために使う大きなコンテナが散乱していて,100人以上のボランティアが一生懸命片付けをしていました。コンテナは全体が砂の中に埋没していて,スコップで掘り出す作業は大変そうでした。
LinkIcon「鳴き砂」の浜でボランティア清掃 ゴミ10tも(テレビ朝日)
LinkIcon鳴き砂清掃、うれし鳴き? 気仙沼で150人片づけ

唐桑小学校の避難所を訪問

 九九鳴き浜で気仙沼市の教育長さんと合流し,教育長さんの紹介で唐桑小学校の避難所を訪問しました。これもジェームズの取材です。唐桑小学校では,避難生活をしている舞根(もうね)地区の代表の方のお話しを,じっくりうかがうことができました。

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 2人のリーダーの方はとても和やかに被災体験を話してくれました。とっても大変な体験を,このように和やかに丁寧に話せるってすごいことです。印象に残ったのは,震災から2週間後ぐらいから避難所でお酒を飲んで語り合うようになったという話です。お酒は津波で流された自宅跡から拾ってきたもの。船乗りが多い地区なので,外国から買ってきた高価な舶来ウイスキーがたくさん残っていて,毎晩それを飲んでいたそうです。この避難所では震災後すぐに4人のリーダーが決まりました。そしてリーダーを中心にルールを決めて,みんなでそれを守って生活してきました。その中で住民同士の一体感が高まり,「みんなでもう一度,舞根に戻ろう」という意思を固めたのだそうです。広い廊下の一角には,ストーブを囲んでパイプ椅子が並んでいて,ここで毎晩いろんなことを語り合ったんだなと思いました。
 ちょうど昼時に訪問してしまったのですが,なんと私たち全員にカップラーメンとおにぎりを出してくれて,昼食をご馳走になりました。帰り際には12年もののオールドパーまでいただいてしまいました。
 唐桑小学校はとてもきれいで,空間を大きく使った造りになっていて,広い廊下,映画館にもなりそうなホール,オープンな教室など,とても素敵な校舎でした(校舎という雰囲気ではないですねー)。こんな学校で働いてみたい…と多くのツアー参加者が思ったことでしょう。
 唐桑小学校で話をうかがっているあいだに,雨は止み,青空が見えてきました。

気仙沼市立小泉中学校を訪問

 ここもジェームズの取材場所です。避難所となっている小泉中学校を訪問しました。ジェームズが取材している間,他の参加者は津谷川沿いの低地と海を見渡せる場所に行き,途中で寸断されたJR.気仙沼線の高架橋やそこにあったはずの陸前小泉駅のあたり,何もなくなってしまった平野部の茶色い風景などを眺めて,津波の威力を感じました。海はきれいな水色で,目の前の津波の被災地の景色と激しいコントラストをなしていました。

 ちなみに震災前にあったはずの陸前小泉駅やその周辺の街並みは,Google のストリートビューで今もまだ見ることができます。
 小泉中学校でツアーは2つに分かれ,KAIさん,まあこ,たあちゃん,ほんちゃんの4人は戸倉小学校の様子を見学に行きました。ジェームズ,あべパパ,Sphinxの3人は,南三陸町に移動し,ジェームズが写真を撮るのにお付き合い。その後,あべパパと分かれて,登米東和インターから三陸道を通って仙台に戻りました。

夕食会

 ツアーの最後は夕食会です。夜8時頃に仙台駅ステンドグラス前に集合して,仙台駅ナカ3階の伊達の牛たんで,牛タン定食を味わいました。
 夕食会から,MAP研のいっきゅうさんとhayaも合流し,学校での被災の様子や,山元町の家の片付けの様子など,映像を交えながら被災体験を語ってもらいました。また,東京でのPAの話を聞いて,ちょっとうらやましかったり,宮城もガンバローと思ったりもしました。2時間があっと言う間に過ぎましたねー。お酒がなくてもこんなに濃い楽しい時間が過ごせるんだということが分かりました。

 とまあ,こんなかんじで,朝8時40分気仙沼駅集合,夜の10時15分仙台駅解散という,東日本大震災の被災地弾丸エコツアーが終了しました。遠くから0泊3日という超強行軍で来てくれたまあこ,たあちゃん,ほんちゃん,ありがとうございます。そして,宮城から参加してくれたKAIさん,ツアーを企画・案内してくれたあべパパ,夕食会から合流してくれたいっきゅうさん,haya,ありがとうございました。そして,ジェームズのおかげでいろんなところの見学ができました,サンキュー!
 また近いうちに,みんなで会いましょう。その時はきっと宮城の復興を喜び合えることでしょう。

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