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着物を着た小さな女の子を
家族がビデオと写真に撮っている・・・。
南三陸町を離れようとしていた頃、
そんな光景を目にしました。
我が家があったところなのでしょうか、
土台だけになった場所で、
美容師さんらしき人が
女の子の着付けを直しているのですが、
何もない、色のない場所に
ピンクの着物が映えて
ドキッとしました。
人は生きていくんだな・・・
と思った瞬間でした。
たくましくー。
Sphinx,詳細なレポートをありがとうございます。
私は、別行動になってからのことをー。
私たちは、海岸線を南下。
南三陸町に行きました。
鉄骨だけになった防災対策庁舎。
ぼろぼろの志津川病院。
多くの場所は、ここ、何があったの?
と聞いてしまうくらい
何もなくなってしまっていました。
3階建ての上まで水が来たことが分かり、
津波の高さと破壊力を実感しました。
戸倉小学校。
屋上まで上がってみました。
校舎の中は片付けられ、
散乱していた物はロッカーの上に置かれたり
部屋の隅に積まれたりしていました。
ピアニカやえのぐ、写真、
紫の箱に入ったままの校旗、
砂色になったパソコンや大きなテレビ、、、、、
ここで毎日子ども達が学んでいたんだよなぁと思うと、
何ともいえない気持ちになりました。
1階2階には机や椅子はなく、
流されたことが分かりました。
3階を過ぎて屋上に上がると、
養殖されていたカキがたくさん残っていました。
ここまで巻き上げられてきたのですね・・・。
屋上から海を見ると、何という近さ。
海からこんな近いところに学校が建っているということに驚きました。
幸い子ども達は中学校に逃げて無事だったことを聞き、ほっとしました。
その中学校も、海側でなく逆方向から巻き込んだ波が上がってきたとのこと。
高台の斜面は、
水が来たところまで木が茶色に変色していました。
戸倉小学校校舎の隣の体育館は骨組みだけ。
その骨組みに暗幕や浮きの着いたロープがからみつき、
床だったところには、流れてきた物がたまっていました。
南三陸町を一望できる志津川中学校に上がり、
津波に襲われた広さを知ることができました。
あいにくモヤがかかってしまい、
写真では分かりずらいですが、
肉眼では海に向かって全面が
津波に飲まれてしまったことがわかりました。
津波が来た境目には、
大量のがれきがたまっていて、
このすべてを取り除くのに
いったいこれからどれほどの時間が必要なのだろうと思いました。
一見すると家が残っているように見えても、
よく見ると、
家具やたくさんの物はいったいどこに行ってしまったのかと思うくらい
空っぽでした。
地形のせいで、道を通りながら
がれきと化している場所と
何でもないところが交互にやってきて、
そのギャップに戸惑いました。
また、どうしてここまで波がくるのか
理解できないところもたくさんあり、
自然の猛威を感じました。
KAIの学校、入谷小学校。
避難所になっていて、
外のテントでは、女の方達が夕食を作っていらっしゃいました。
校庭には仮設住宅が立ち並び、
運動できるスペースはほんのちょっととなっていました。
地盤が沈んだということで校舎と地面の間に隙間ができ、
砂で埋めてありました。
被災地で暮らしている方達は、
朝起きると、
現実を受け止めるところから
一日が始まるのでしょうね。
3ヶ月が過ぎても、
がれきの山は一向に片付かない。
被災地は静かでした。
重機が動いているのに静かを感じました。
これから何年も片付け続ける。
そして復興。
淡々と、淡々と、、、、、。
私には、見てきたことを消化することはできないと思います。
今はただ、事実として受け止め、
被災地が、そこに住む皆さんが立ち直っていく姿を
ずっと見続けていこうと思いました。
みなさん、心から、ありがとうございました。
予想もしていなかった経験ができ、
本当にラッキーでした。
お見舞いに行ったつもりが、
逆にもてなして頂いた気分です。
MAP研の方の温かさを
心いっぱい感じてきました。
仙台でさよならをしたあと、
(出発したのは11時頃でした。)
高速に乗ると、すぐに眠気第3波がやってきたので、
とにかく仮眠をーと、
車にカーテンをはりめぐらせ、
シュラフをかぶりました。
・・・・・・・・・・・
たあちゃんの、
「まあこ、大変!」で目覚めー。
何と5時間も爆睡してしまいました(^^;)
そんなわけで家に着いたのは朝の9時半。
すごいツアーでした。
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