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MAP研究会は,宮城県教育公務員弘済会の支援によって活動しています。

kuniの研修日記(番外編1)
徳山郁夫教授インタビュー(その1)

6月25日(月)〜27日(水)
徳山郁夫教授インタビュー
(千葉大学教育学部スポーツ科学専攻)

6月25日(月) 徳山郁夫教授インタビュー

 大学で一般教育をGeneral Educationというが,「将軍の教育」=「ガキ大将の教育」とは言えないだろうか。

 学校の教員は「人間観」を教えるもの。それが教材研究に走ってしまう現状。教材を通して人間観を教えるという気持ちが必要ではないか。教員は…「子どもは何も知らない」→だから「教えてやらなければならない」と思っている。これは子どもを軽視していることになるのではないか。

 アルビン・トフラーの「第三の波」で公教育(学校教育)を次のように定義している。

  1. 従順にさせること
  2. 時間の励行
  3. 単純作業の反復

これは「労働者(プロレタリアート)」を作ることになる。日本はこれまで労働者が必要だった。しかしこれからの時代は異なる。この3つは,「しつけ」とは似て非なるもの。神戸の校門事件はこれに忠実に従った教員によって起こった事件。遅れてきそうな子で不真面目な子は走ってこない,まじめな子だからこそ飛び込みがあって事件に巻き込まれた。この現実をどう思うか。

 「しつけ」とは「規律」だろうか。それは外側から与えられるものではないか。それをJustice(正義)という内側からわき起こってくる感情のもとに置くことはできないか。→それは体験から得られるもの。だからこそ体験学習。いじめ,茶髪や制服の乱れ「やめなさい」という外側からの投げかけではなく,「やめなくちゃ」という内側からの気付きが必要。

 なぜ「遊び」か?それは「受け入れてもらえる」ということ。そこには何の選別もなくやりたい人が入ってこれる環境があり,その中で「Full Value」「Being」の精神が培われる。「全てをそこからはじめよう」という段階からのスタートをするのである。当然,受け入れてもらうためには「無視はできない(No Discount)」である。その中で活動していく過程が「Team Building」でありそのチームがあるからこそ「Challenge」できる。

 これは「集団」を形成してから,その中から「個人」が育っていくという考え方に基づいている。しかし,日本は元来「能力のある人はOK」という選別の段階から「個人」に偏っており,その選ばれた「個人」で「集団」を形成してきた。実際,学校でも「入試」などの現状を考えるとこの現象に当てはまる。「やりたい人を拒めない,やりたくない人には無理強いしない」これが遊びの基本であり,Full Valueの考え方と結びつくものであろう。

 生涯学習をLifelong Learningと呼んでいる。なぜ一生かけて学習するのか?もう学習しなくていいという考えを持っている人はいないだろうか。「第三の波」で述べた公教育の原則によってできた「労働者」の学習は「有限」でよい。足りなくなったらそのときに補えばよい。しかし「人間」としての学習は「無限」である。Lifelong Learningの材料として「グレートブックスとの対話」という本が出されている。ここからいろいろなアイディアが生まれてくるはずである。

 ヨゼフ・ピーパーの「余暇と祝祭」ではLeisureを「自由」の意味でとらえている。自由とは何か。自分のやらなくてはいけないことから逃れることではない。自分が精進することによって一歩神に近づくことである。それはどのようにして得られるかという考えがLeisureなのである。この書の中で「仕事に没頭することを怠惰という」と表現している。このことをどう考えるであろうか。「余暇」≠「怠惰」であろう。また「遊ぶ」≒「フルバリュー」であろう。

 フルバリューの説明をするときに阪神淡路大震災の例を出すことがある。もし朝の通勤途中に震災が起きて,そこから何とか家にたどり着いたときのことを考えてみよう。あたり一面は焼け野原になっており,もう何も残っていない。しかしふと煙の向こうから家族が,無事で立っているのが見えた。そのときの気持ちを想像してほしい。「何もなくても,ただいてくれればいいこと」これがフルバリューなのではないか。「フルバリュー」とは何かをいい方向にすることではなくて,何もなくても存在(Being)があればいい,という気持ちになることなのではないだろうか。

 他にも,Peace(平和)という意味を考えてみるとそれは「戦争がないこと」ではない。戦争が起きてはいるのだが騎士たち同士の戦いになっていることで農民などの一般市民が巻き込まれずに守られていることを意味するのだ。

 北海道の余市高校のテレビ。非常に感動的だ。涙なくしては見ていられない。

参考文献として紹介いただいたもの
【生涯学習の必読書】 K−FACE叢書5
グレート・ブックスとの対話
〜「学習社会」の理想に向けて〜
松田義幸,須賀,工藤 共著
財団法人かながわ学術研究交流財団
(0468−55−1821)
【Being(存在)について】 TO HAVE OR TO BE(生きるということ)
E.フロム 著
紀伊國屋書店
【スポーツと体育について】 NHK人間講座
日本人とスポーツ 2001 6〜7期
玉木正之 著
日本放送出版協会
【これは全ての日本人が読むべき】 余暇と祝祭ヨゼフ・ピーパー著,稲垣良典 訳
講談社学術文庫
(解説から読んだ方が理解しやすい)
【とてもいい本】 十二番目の天使
オグ・マンディーノ著,坂本貢一 訳
求龍社
【徳山先生の自分を確認する書】 臨床の知とは何か
中村雄二郎 著
岩波新書

クライミング:6限目
17:50〜19:20
(第一体育館のステージに設置されたクライミングウォール)

 この授業は,約20名の学生や大学院生の他に,一般の方々も自由に参加できる形態をとっている。またこの授業の前には小学四年生の男の子もクライミングに挑戦しており,この中で社会の縮図を学ぶ貴重な場となっている。僕もチャレンジをしたが不慣れなためかうまくいかなかった。しかし命綱をつけてより高い部分に挑戦するなど,ビレイヤーを完全に信頼して活動に参加することができた。もちろんビレイヤーを学生がやっておりこれは蔵王高校のハイエレメントに関しても責任を自覚してもらうという点では何らかのヒントになるのではないかと思った。

 徳山先生は授業中自らが積極的にチャレンジするだけ。安全面の注意は怠らないが,それ以外のことについてはいっさい口を挟まず,時に激励の言葉をかけるという形で学生を見守っていた。この姿勢が我々教員に求められるスタンスではないだろうか。

体験学習特論:7限目
19:40〜21:10

 前回の授業までは体育館でゲームなどをして「遊び」を体験していたということだった。このクラスは現職の教員が集まる大学院のシステムで,約20名の現職教員の方やカウンセラーの方などが出席しておられた。その中には仙台の小学校でスクールカウンセラーをされていた方もおり,私が突然参加しても何の不安もなくその場を共有できるような雰囲気を作っていただいた。フルバリューなのかなと感じた。また,千葉県では1年間現場を離れて,大学院で研究生として学べるようなシステムを採用しているそうで,非常にモチベーションの高い集団になっていた。

 我々の学校での授業の形態はどうであろうか?「先生が教えない」ことによって「学生が自発的に気付いていく」というより強い内側からの気付きが必要なのだと感じた。我々教員は生徒に認められたいがために多くのことを教えたがっている。しかしそれは本当に生徒のためになっているであろうか。これがこの教室でまさに起こっていた。私たちがPAを取り入れるにあたって,体験会や講習会で見たり聞いたりしてきた内容を,この院生たちは自らで「感じ」ていたのだ。進みはゆっくりであっても自分の気付いたことを感想として述べられたときに,自分は知識・言葉としては知っていても実際に体験には乏しいということを感じ,自分が小さな存在に見えてしまった。この院生たちは,間違いなく現場に戻ってから,体験的ないい授業をされるであろう。MAPに携わっていただいたらそれこそもってこいだということを感じた。

 宮城県でもMAPを重点事業にあげるなら,このようなシステムでじっくり研究していく期間があってもいいのではないか。しかし残念ながら,大学や大学院でそれをアレンジできる方がいるとはあまり思えないが…。

授業の内容で印象に残ったことなどを少し

 「ストロー24本,卵1個,セロテープ1mで3メートルの高さから落としても卵が割れないシステムを作りなさい」また「全員がこの板の上に乗りなさい(オールアボード)」などのイニシアティブゲームでは,チームが見えてくる。この中での関わり方に人間関係やコミュニケーションのスキルなどを見出すことができる。

 日本では子どもたちを「先生にとっては荷物」という気持ちで一色単に扱ってしまう,すなわち教員側の都合で物事を見てしまう傾向にあるように思う。これを「遊びを通して見直そう」という考えを持っている。

脱構築

 イニシアティブゲームを行うときにはグループが問題を解決すること(結果を出すこと)が目的なのではなく問題を解決するためにいかにグループがまとまる(プロセスを踏む)かということが目的となる。

 私たちは今までがんばれば解ける,必ず答えのある問題ばかりに取り組んできた。しかし実際はどうだろうか?これからの「環境問題」や「高齢化社会」という問題にあたったときにそれは答えのある問題だろうか?それを解決するためにどうか変わるかというのがこれから求められる資質であろう。

 民主主義は多数決の時代だといわれているが,それは偽りである。ここにマイノリティ(少数派)の問題が出てくる。「大多数がマイノリティからいかに意見を聞いて,その中で構成していくか」これが本当の意味での民主主義であろう。マイノリティを殺すことが民主主義ではない。

 院生からの質問「振り返り,分かち合い」より一歩踏み込んでいけるものはないか?」先生からの提案「文化の違いがある。もともと積極的に話す環境であれば,振り返りの場だけで次につながることも出てくるであろうが,日本人はただでさえ話すことの少ない文化があるので,振り返りで意見を出すだけでも十分なチャレンジであろう」

 カウンセラーの方より。「いじめられている子ども」に対して…教員の希望:いじめがなくなること,生徒の希望:もっと自分の自信のあることを発見し,そこで力を発揮できること。戦争がなくならないんだから,いじめもなくなるはずがない。「いじめはありませんでした」という校長に愚かさを感じる。

 生徒に感想を聞く,例えば「ビデオを見て感じたこと」を尋ねると,「期待された答え」を答える傾向にある。これは日本の風土や文化によるものであろう。だから「感想」を尋ねられても「説明」しか答えられない。本当の意味で「感じたこと」とは身体がPassiveに受容したもの,感受性ではないか。知行一致の「知」の意味を考えてほしい。自分の感じたことであるという意識を。

 PAについて「体ほぐし」の題材としてとられる誤解があるが,本当は奥が深いもの。ファシリテーターは「あなたがどう感じて,どう動くか」を見ている。PAでは答えは1とおりではない。100人いたら100とおりの答えがあっていいという考え方。

 「遊び」は「参加するものは拒めないし,参加しないものを引き止めない」という考え方。これは学校現場ですぐに実現するのは難しいかもしれないが,これがいい方法であることはたしか。大事なことは遊びの中で「ルールを守る」という緊張感の中にいることである。それを伝えるのが教員の使命ではないだろうか?

 ラグビーでは秩父宮競技場でノーサイドのあとはオレンジハウスで両チーム入り乱れてパーティーを行う。お互いをたたえ合う。その中で振り返りが出されるのだ。これはいいことだ。本来はチーム(集団)として成長し,それができた上でまわりのサポートを受けながら個人としての冒険が始まるはず。しかし日本では個人の段階で選別され,その個人を集めてチーム(集団)を作っていく。おかしいのではないか。これをPAはしっかりと伝えている。ハイエレメントでは下にいる人も一緒に喜べる。これが「共感」の実例であろう。この経験をしていない人に「共感」を伝えるのは難しい。チームとしてできあがった上での「共感」だ。

 教員は子どもを必要以上に低く見ている。もっと尊重すべき。

6月26日(火)
新橋トムソーヤークラブ(御成門小学校体育館)
17:00〜20:30

 この活動は徳山先生が33年間やっている活動であり,元々はご自身の大学時代のボランティアから始まったものだそうだ。とにかく遊ぶことが好きな徳山先生が小学生を相手に遊ぼうということが原点のようだ。

 現在,体を動かす活動が少なくなってきている子供たちは,室内でのゲームや塾通いなどに多くの時間を費やし我々が少年時代に得た体を動かす遊びなどによる,痛み,喜び,悲しみ,仲間意識などについて考える時間が明らかに希薄になってきていると思われる。その中でこの活動は子供たち主体の「子供たちがやりたいことは全部やる」という意識のもとでの活動である。

 参加者は小学1〜4年生が20名程度,5,6年生が15名程度の集まりで,そこに普段は徳山先生とペコちゃん(徳山美知代さん)が関わっているそうだ(ペコちゃんはMAP講習…氓フ準備のため欠席)。そのほかにすばらしいのは,ここのOBなど複数の大人が積極的に関わっていることである。千葉大学の大学院生(プロのキックボクサー)とこのクラブのOB日体大生(アメフト),高校生(アメフトの弟),そしてOBのお母さん,紹介できた動物病院の看護婦さんなど幅広い年齢層,幅広い背景を持った方々が重なり合って一緒に関わっている。まさに社会の縮図といった感じだ。本当のクラブチームとはこのようなことなのかなと思った。

 遊びを自分たちで考え出そうという気持ちを持った子供たちで,ルールを自分たちで整理し,それを守るといったPAが「フルバリュー」と声を大にしていっていることをごく当たり前にやっている子供たちに感激した。

 内容は鬼ごっこ,めちゃぶつけ,リレーをやったりすることから始まる。ここで私自身が気付かされたのは「遊びをするときには何事も真剣にやらなければいけない」ということである。クラブの練習などで選手のレベルにあわせるといったことをついしてしまうことがあったが,それは選手たちにとって非常に失礼なことであり,彼らを低くみているということなのである。現にリレーをやっているときに,私が競り合いを作ろうと少し遅く走ったら,ほかのチームの子供たちからも怒られてしまった。子供は正直だ。ほかの大人の方々も真剣に走っていた。これは私たちが指導者の立場に立つと,ついやってしまうことである。反省すべきことだと思った。

 現に,めちゃぶつけでは学年によって,ぶつける回数に差を付けることによってバランスをとっている。試行錯誤を繰り返しながらルールを自分たちで整理していくのである。またリレーの時などは,最初になった順番に距離に多少の差を付けるなどして,全員が一生懸命になったときにやっと同じくらいの環境を設定してやっている。これは私たちがやっていかなければならないことであろう。求められているファシリテーター像を徳山先生はやっておられた。距離の差を不公平に思う子供たちなどいなかった。我々はどうだろう?「不公平だ,なぜうちだけ長いの?」などと不平を言ってはいないだろうか?一斉指導から個に応じた指導へということが叫ばれて久しいがそれを体現している教員がどれだけいるか私も含め考えさせられた場面だった。

 それから高学年と低中学年とに分かれて活動が始まった。低中学年は3人で背中合わせに組んでその中にボールを入れて背中で支えながらやるリレーなどをやっていた。「協力する」というテーマを自然に受け入れた子供たちは大学院生(プロキックボクサー)の支援のもと工夫を凝らしながら大きな声を出して遊んでいた。宮城県に望まれるのは大学時代からそのような支援の機会に恵まれている人の存在ではないだろうか?彼などはPAに入ったら間違いなくすばらしいファシリテーターになる資質を持っていると私も感じ,また徳山先生もそう話されていた。宮城県で学生が体験会を受ける機会が非常に少ないと思うのだが…。

 高学年ではバスケットをやっていたが,「お助けマン」としてボールをつなぐ役目に徳山先生と僕が入り,子供たちが必要なときに手助けをするという形で行った。彼ら自身が作戦を立てる,それを実行してうまくいかなければ修正するという意識は,バスケットボールを常に「教えられ」,「教えてきた」僕にとっては全く新しいことだった。創造性を持った選手というのはこのような環境から生まれてくるのかと思わされた一コマだった。自分の指導法も含めて考えさせられた。

 その後,さらに残った子供たちとサッカー,バスケットをやった。バスケットでは小学生が決めたら4点,そのほかは2点というルールで4点先取のゲームだった。小学生に入れられてはたまらない,それで思い切りブロックにいく,しかし小学生が10回シュートを放ったうち1本成功する,それで勝つ。そのときの喜びを考えると計り知れないものがあろう。「それが楽しくてやっている」と徳山先生はいう。僕たち大人が本気を出す,出さなければならない状況を作る,そしてその中で小学生に大人の強さ,厳しさ,そして優しさを肌で感じさせる,その環境がこのクラブにはあった。「勝ち残り」というのもモチベーションを大いに高めていた。普段,クラブで厳しいつらい練習をしていての「負け残り」というマイナスにマイナスを塗りかぶせていく環境を作っている自分に気付き,「楽しいことをもっとやりたいから勝ちたい」という気持ちになっていく子供たちがうらやましかった。僕も現場に戻ったら「もっとやりたい」という環境作りに力を入れようと思った。

 「帰ったら宿題がある人」と帰り際に徳山先生が子供たちに投げかける。「算数だ,漢字だ」などと口々に話す子供。「今日はできないだろうな,疲れて」「やるよ」。ここには本当にあるのだろうかと思っていた,理想的な空間があった。子供たちはお母さんに迎えられたりしながら帰っていった。「おじさん,またくるの?」「おにいさん!再来週くるよ」再会を約束して,私も家路についた。「子供たちと遊ぶなんて何年ぶりだろう?」「でもこんなに本気で遊んだのも何年ぶりだろう?」いろいろな自問自答を繰り返しながら,忘れかけていた自分を取り戻したような一日だった。「将来はOBに引き継いでほしいと思っている。彼らなら間違いなくできるからね。」と徳山先生は話しておられた。そういえばアメフトの日体大生とその弟は,小学校時代手のつけられないほどの腕白ボウズだったそうだ。すぐにけんかを起こしてしまうような少年だったということだ。しかし今は,子供たちに真剣に,そして本当に優しく関わっている。「私の指導観はあの子たちで完全に覆されたよ」とうれしそうにほほえむ徳山先生が本当に幸せそうで,自信に満ちあふれて見えた。当時は冬山にこもってのスキー合宿などもやっていたそうで,本当の人間関係が見え隠れする体験は本当に貴重だと語っておられた。

6月27日(水) 徳山研究室にて

 「文化はいらない」といった人がいる。「効率」さえよければいいと。本当にそうだろうか?それなら,やることを決めてそれに向かってまっすぐ生きてすぐ死ぬのがいいということにはならないか?たとえば,ビタミンなど栄養学的に一番効率がいいのは「アポロなどに乗る宇宙飛行士の宇宙食」だという。しかしだからといって,それだけで満足するだろうか?実際に「トロが食べたい」,「お酒が飲みたい」という願望があり,それを補う何かもありで「人間らしさ」というものが生まれてくる,それが「文化」ではないか?

 それを「遊び」と例えることができよう。「効率」という直線から「トロ」とはみ出したらそこから戻り,「お酒」とはみ出したらそこから戻り,という繰り返しで楽しくやっていけるのだ。

総合科目「ライフスタイルを考える」

お願い

 こんな大人数に集まってもらってありがとう,そして座れない人がいるの申し訳ない。90分では終わらない内容…今日の話は新しいことを知るのではなく,「発想の転換」の話。

 自己紹介。私は「遊び」を研究している。「一般教育」に7割の力を注いでいる。「一般教育」はGeneral Educationと英語で表されるがGeneralには「将軍,大将」という意味合いもある。その教育を研究したいし,学生のみんなに「将軍,ガキ大将」について考えてほしい。Private Education(二等兵を作る教育)はしたくない。「経験」について考えてほしい。Free Climbing,Heel Free Ski(テレマークスキー)をやっている。映像リテラシーの重要性についても研究しているライフスタイルを「遊び」の観点から話していく。

プリントの配布

 我々は機械文明の中で何不自由ない生活を送っている。しかしもし停電になったらどうだろうか?今この場所でも,非常に暑い中,大きな声でという授業になってしまう。この機械文明の中で軸がぶれてくると大変なことになってしまう。今の状態では今後の方向性として次の二つが考えられる。

  1. もっと文明化していく
  2. 原始的なものに目を向ける

私がFree ClimbingやHeel Free Skiをやっているのは,それが自分の手と足だけで行うものだからだ。電気がなくてもこの二つはやっていける。リフトも使わずにできるものだから。

The Shot

“ザ・ショット そして伝説は始まった”
“神 降臨   不滅の3ピート”
センター中心のバスケットからガード中心のバスケットへと流れを変えた
“引退     父とのField of Dreams”
まるで子供に戻ったような気分だった
“復活     ブルズ王朝誕生”
I'm Back
“ラストダンス”
    ↓
“人間の進化に限界なんてない”(マイケル・ジョーダン)

これが「生涯学習」に結びついていくことではないだろうか。

 スポーツを新聞というメディアで考えると…。USA TODAY SPORTS(アメリカ),日刊スポーツ(日本),LE QUIP(フランス)を比較してみよう。

日本に「スポーツ」が「体育」として入ってきたために「あそび」ではだめだった。それは「体育」として入ってきたから。「修養」「訓練」という意味合いの目的に添っていなくてはいけなかった。

雨粒の問題

 どしゃぶりは2〜3mm,きりさめは0.2mmの大きさです。落下速度はどうでしょう

  1. どしゃぶり>きりさめ
  2. どしゃぶり<きりさめ
  3. どしゃぶり=きりさめ
  4. 条件により異なるからわからない

これを100人ぐらいいたら必ずやります。すると不思議と答えが多くなるのは決まってきます。しかしそれが答えでないのはひきょうなことでしょうか?雨粒の大きさを実際に書いてみればわかるでしょう。人間の心理はどうしてそのような答えを導き出すのでしょう?そのような引っかけをさせる環境にあるからでしょう。

 これは,「言葉」や知識」で与えられてきたから。自分が体験していないことに「言葉」や「知識」を借りて自分を動かしてきた結果による。これを「聞いた話」として終わりにするのではなく,感覚として「感じる」ことが必要。

 我々は現実を知る前にすべて教えられてきている。現実を知ってから,それにラベリングする方法もあっていいのでは。すなわち,まず体験してから,その理論をあとで考える,ということもあっていい。

グッドウィルハンティング

 MITの数学の教授が難問を出すと,そこに掃除できていた若者が簡単に解く。彼は少年院送致を繰り返す犯罪を犯す若者だった。カウンセラーを変えるがことごとく拒否され最後にたどり着いたのがロビン・ウィリアムズ扮するカウンセラー。

言葉・知識の天才であるが,体験に基づくものが何もない
          ↓
それをさらけ出すのにおびえている
          ↓
「君から学ぶことは何もない。君という人間には興味がある。」

 「仕事=効率」とは考えていないだろうか。ヒトラーがこれを体現してしまった。ゲルマン民族は「優秀」であるが,「優秀でない」ユダヤ人は社会に役に立たないからもういらないと大虐殺をしてしまった。これに反するのが,フランクルの「それでも人生にYESと言う」である。是非一読を。

 我々は今まで「優秀な学校,会社…」という考えできている。すなわち効率が一番だと考えている。 しかし24時間「効率」を考え続けることができるだろうか?スポーツマンはGood Fellows(いいやつ)でありたい。「いいやつ」であるために「いいおじさん,おばさん,お兄さん,お姉さん」でいられるようになれれば。「科学的」というと便利にはなったが,「測られている」ようで居心地が悪いのではないか。

余暇と祝祭

 解説を読んでおくこと。

Being

 「遊び」なんだから「優れて」いなくてもいいじゃないか。長野オリンピックを前に当時の長野県知事がスピードスケートで2人ずつ競技することについて「あれでは誰が一番だかわからない」。日本のスポーツ意識は残念ながらまだこの程度。勝ち負けを意識した発言に終始する。

 ミヒャエル・エンデのモモを読んだことがあるだろうか。時間どろぼうとの話しもあり時間軸についての話の部分で有名な話だが,「モモといると安心する」という部分も見逃してはいけない。「モモ」はみんなの話をただ聞いてあげているだけなのに,それがどれだけの人を安心させているか,これがポイントだ。「今の自分に正直に面と向かえばいい」これがモモの象徴であろう。

 子供の頃の「遊ぶ」とは一緒の時間を共有していることであった。精神面も安全に,みんなで強い子も弱い子も一緒にそこにいるということだったバリアフリーが叫ばれて久しいが,それはその人をどうこうすると言うことではなく,すべてを含めて一つのコミュニティを作るということである。しかし今の日本では一人一人が立派になるという考えが優先しており,ティームにはなれていない現状である。一人一人が自分の城壁を高めているという風潮が見受けられる。ティームができて,その環境のもとで「チャレンジ」や「アドベンチャー」ができるのだ。ティームがないと,本当の「優しさ」は生まれてこない。

 貫戸朋子「国境なき医師団」の中で「日本人にとって平和って大事でしょうか?」「そのために何かやっていますか?」という問いにとてつもない重みを感じた。それは「体を張って守れるもの」の経験があるか,という重みであった。

 BeingはFull Valueという言葉とほとんど同義で使われていいと思う。例えると,空襲で焼け野原になった我が家の煙の向こうに家族の人影が見える。そのときに宿題のこと,成績のことなどを考えるだろうか?「いるだけでいい」という気持ちであろう。本来そこから我々の「生命」「暮らし」は始まっているのではないか?本来はここからの積み重ねがあるはずなのに,言葉や知識が先行してはいないか?

 Beingの考えに積み重ねていく過程をLeisureといっている。Leisureは忙しさから逃れることではない。「余暇と祝祭」ではそのことについて詳しく述べている。

 大学を出て,一つの専門分野でやっていける時代はもう終わっている。医学の進歩に倫理学者や哲学者がチームを組んで取り組んでいく時代である。求められているのは「コミュニケーション」であろう。それは「環境問題」や「民族問題」などに取り組んでいく過程を見ても明らかだ。一つの分野の知識では全くどうすることもできない問題だから。

PAのVTRを見て

 ハイエレメントの映像はインパクトがあるが,実際は遊びをしながらチームビルディングを行っていく。その活動を忘れてはいけない。

 学校で本当に「やった」といえるチャレンジをしているか?また学校がさせているか?これが高校や大学に求められているものだろう。

Bud Greenspan(写真家)のLast African Runnerより(Most Dramatic Scenes in Olympics)

 アクワリ(ケニヤ代表):同国のアベベが話題を独占する中,足の激痛に耐えながらゴールを目指し,表彰式が終わったあとでも1万人の観衆が迎えた。

「国が私をオリンピックに送ったのはスタートさせるためではない。ゴールさせるためなのだ。」 日本では代表になるための力が大きすぎて,本大会ではburned outしてしまう。

バスケットボール部活動

 関東の3部で2部との入れ替え戦に毎年出場している。留学生も3人練習に参加しており,また男子部員やOBの参加もあり,レベルの高い練習をしている。僕も部員とともに練習に参加。

 以前行われた試合での,ポイントや修正点を徳山先生が指摘し,それを改善すべく学生たちが考えながら練習に取り入れていくスタイル。この日は,ボールを持ってからの1対1の積極性に欠けること,リバウンド時のボックスアウトについて指摘を受け,その練習を行っていた。後半では,ゲーム形式になったが,男子部員が多少遠慮をしていたり,レベルにあわせようと多少手を抜くと徳山先生から指摘があった。手を抜くのは相手に失礼だということであった。

 練習の最後には「今日は楽しめたか?」という投げかけ。「自分が,よしやってやる,という気持ちにならなかったら,相手も楽しくないよ。相手を楽しませるために,自分が一生懸命やらないといけない」ということが話された。

 これまで僕がバスケットを指導されてきたのとは全く違うスタンスで,その結果として勝利があるかもしれないというスタンスでプロセスを重視されていく関わり方はとても参考になった。

振り返って

 この3日間は僕にとってあまりにも貴重な3日間だった。PAのファシリテーターはよく「みなさんの10時間は私たちにとっては10秒です」という。まさにそんな3日間だった。あっという間にすぎた。

 徳山先生も何も包み隠すことなく質問したことについては快く答えてくださり,資料なども全く惜しむことなく,コピーしてくださるなど,まさにフルバリューの空間がここにはあった。私たちの職場はどうであろう?教員は生徒の前では常にすべてを知っているべきものとして,本来の自分ではない姿で振る舞い,教員間では知識の出し惜しみをしたり,ねたみや非協力などの環境におかれている。本当にそれでいいのだろうか?

 「体験していないことを伝えることはできない」これはPAのファシリテーターが必ず伝えることであるが,この場面でもそれに直面した。クライミングの授業で,手がぱんぱんになって考えること。あと一歩ジャンプすれば届く,後ろからも後押しの声援があるがそこに踏み出すことができない自分,そのうちに疲労が蓄積しパフォーマンスが発揮できなくなる葛藤…,すべて体験してからでないとわからないことだった。

 さらに先生は,私が質問したりお話ししたりしたことを,授業に一部に引用してくださったり,紹介してくださったりと,共有する場面を多くとっておられた。いいと思うことがあったのかと私もとてもうれしかったし,そのような環境作りが私たちの職場でも必要なのだろうと感じた。とにかく筆先には尽くせないほどの感情を抱かせてくれた3日間だった。

kuni