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▼エフェメラルさん:
こどもに「人様に迷惑をかけてはいけない」というような諭し方をすることがありますよね。でも,私たちは誰かに迷惑をかけずになんて生きていけないんだと思います。だから,少しぐらいの迷惑は割り切ってかけてしまったほうが,互いに楽に生活できるんじゃないかと思います。
>困った〜→誰か助けて〜→ありがとう!感謝!感謝!→私に余力がある時は今度は私が助けるよ〜
>これでいいんだな、と。
そうそう。そのために,私たちは群れて生きているんですよね。助け合うために。
大学時代,ほとんど寮生活だったのですが,寮生活はまさに「少しずつ迷惑をかけあう生活」でした。
寮時代っていうのは,今振り返っても一番濃密な人間関係の時代だったと思います。二人部屋でしたから相方の生活リズムに合わせなければ行けないことも多く,枕元で麻雀が明け方まで続くなんて日常茶飯事。でも不思議なもので慣れると麻雀の音を聞きながら熟睡できるようになります。こっちはこっちで,いつもガマンしている分,時々は音楽を少し大きな音でかけていい気分になることもありました。もちろん,それで文句を言われることはありません。
これが,互いに少しも相手に迷惑をかけずに暮らそうとしたら,麻雀もできない,音楽も小さな音で…それぞれ息がつまって苦しくなるでしょうね〜。(今の高校生の友人関係は,案外こんな感じなのではないかと思うことがあります)
>>私が勝手に日本語に直したものが,ここにもあります。
あとで思い返してみると,たぶん私が訳したというのはウソでした。m(._.)m
> ……「学ぶ」とはそういうことであるはずなのに、なぜ「説明したがり」「教えたがり…というか教え込みたがり」「詰め込みたがって」しまうのでしょう?
どうしてでしょうねぇ。
私は二つくらい仮説を思いつきます。
ひとつには,教える者もかつてそうやって「説明され」「詰め込まれ」て学んできたということ。逆にいうと,それ以外の学びを知らない。
もう一つ思うのは,上に書いたことと表裏一体ですが,学ぶ者がつねに「受け身」であること。「教えてもらって当然」「分からないのは教える方が悪い」というような感覚があるのではないでしょうか。今のこどもたちは「考えてごらん」と言っても思考停止してしまい,むしろ手取り足取り教えてあげた方が乗ってくるように思います。「生きる力」がついているとは思えません。
>知識を授けトレ−ニングを繰り返すことで学習者の能力を高める支援よりも、自分の能力を自分で伸ばせるように《学び方を学べる支援》をしていきたい……そんなふうに思います。
私も同感ですが,同志も少なく道は険しい…という予感がします。(>_<)
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