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▼エフェメラルさん:
どうもです。
返信は急がずにマイペースでいいですよ。
書きたいときに書けるのが,インターネットの掲示板のいいところですから。
>おもしろいことにやる気のあるLもいればやる気のないLもいる…という現象にはならず、クラス全体がTに対して意欲という大きな塊となってぶつかってくるような
モチベーションの低い人が高い人の行動に引っ張られるというのはありますよね。それが集団で学ぶ理由の一つでしょう。逆に,モチベーションの低い一人に全体が引っ張られるということもあって,なかなか難しいですが。
>私が気に入っている話なのですが…どんなに価値のある話をしたからといって、それ自体が価値を生むわけではない。価値を生むのは聞き手の側であって、話し手ではない。大した話でなくても、そこからヒントを勝手に見つけて価値を生み出す人もいる…〈もしもウサギにコ−チがいたら〉より抜粋
小説や音楽も,作者のねらい通りに私たちが受け止めているわけではない。同じものに接して同じように「感動した」と言っても,実は別々のところに感動してる…とか。受け止め方にはそれぞれの人の人生や感性(バックグラウンド)が反映していくんですよね。
You Can Take a Horse to the Water, But You Can't Make it Drink.
水場に連れて行くのが授業で,飲むのは生徒。でも,飲ませるのが仕事って思っている先生,飲ませられるのが勉強と思っている生徒も多く…。生徒主体の学校になる日は来るのでしょうか!?
>これを読んで気づきました!自分で学ぶことが楽しくて、努力できる自分がうれしくて、自分の成長が喜びなのは、実は今の自分なんです。(教えることは学ぶこと…ですよね?)
>そして発見!ですが、私は確かにたくさんの勉強する機会を経て今に至っているのですが、何かを与えられた、という感覚がないことに気づきました。
そうなんですよ。自分がそうだから,そういう感覚になる。私もこどもの頃から学ぶことが好きでした。そして自分のキャリアを自分でつくってきたという感覚があります。
学ぶことは好きでしたが,授業はそれほど好きじゃなかった。自分のペースとあわないんですよね。高校時代,数学のある分野に引っかかってずっとそのことを考えていたら,気づいたら授業は1章ぐらい先に進んでしまったということがありました。「もっと考えたいのに…」とイライラしたことを今でも覚えています。大学時代にも,微積分のちょっとした部分(ε-δ法)にはまってそこばっかり勉強していたら,すっかり取り残されていたということもありました。一番楽しかったのは高3の数学で,この授業は「聞きたければ聞いていいよ。自分でやりたければ自分でやって。」という授業で,私はひたすら自分で勉強していて教科書を1学期ですべて終えてしまいました。
そういう感覚に近いのが,先のコメントにも書いたフィンランド教育です。フィンランドのこどもたちは試験がないのにとても主体的に学んでいます。
MAP研の掲示板(情報交差点)でも今フィンランド教育の話が出ていて,実際に見学に行った先生のコメントもありますので,よろしければご覧になってくださいね。
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